進まぬ脱炭素社会の希望の星。「生物模倣」テクノロジーが世界を救う!バイオミメティクスの現在地
SDGsが掲げるゴールラインの2030年まで来年で残り5年となる。
しかしながらその達成はまだまだ厳しいものがある。とくに厳しさを増しているのが地球温暖化対策である。さらにこの数年、世界はコロナ対策からウクライナ戦争、イスラエルとパレスチナ、イスラエルとヒズボラ、あるいはイランとの紛争などが続き、世界は温暖化対策どころではなかった。
さらに近年はカーボン・クレジットに関する企業の水増し疑惑も浮上している。カーボン・クレジットを通じて購入した温室効果ガスの削減効果が、実際以上に底上げされている例が環境NGOなどの調査で明らかになっている。
なんともやるせない思いでいる人も多いだろう。しかし、希望はまだある。
同じ製品を長くサステナブルに使う、原材料に石油由来のものを使わないようにすることで省資源、省エネルギーを実現していくのだ。そのためのテクノロジーとして近年世界的に注目されているのが、「生物模倣」技術だ。
目次
■アメリカがCOPを離脱しても、すべきことをする
アメリカにトランプ政権が誕生する。
これまでと確実に違う景色が広がっていくのは間違いないだろう。アメリカ・ファーストを掲げるドナルド・トランプさんが打ち出す予定の政策の1つが、アメリカ以外に影響を与える関税の引き上げだ。これによって各国は関税引き上げ合戦となり、世界中のインフレが加速すると考えられる。
もう1つが、アメリカのCOPからの離脱だ。温室効果ガス排出量世界2位、一人あたりの排出量でダントツのアメリカが離脱すれば、ただでさえ届きそうもない削減目標がさらに遠のくことは間違いない。
トランプさんは、大統領選挙キャンペーン中にハリケーンで大きなダメージを受けたアメリカ南部に現れてそのイメージを上げたが、果たして被害をもたらしたハリケーンが地球温暖化によって巨大化したという理由をどこまで理解しているのだろうか。
二酸化炭素をはじめとする温暖化ガスと温暖化との因果関係についてはいまなお疑問を抱く学者や研究者もいる。だが脱炭素社会へ向けた取り組みによるサステナブル(持続可能な)社会の実現は地球上の各国に大きなメリットをもたらすことは間違いないだろう。
■サステナブル社会に向けたこれからの技術「バイオミメティクス」「バイオミミクリ」
サステナブルな社会にしていくためには、高効率な資源の活用に尽きる。すなわち、現状使用している資源の無駄を減らし、商品のライフサイクルをできるだけ長くするのだ。捨てる商品をなくしていく。役目を終えて捨ててもリサイクル、つまり同じ形状・機能の新品に再生させて利用する。また新たな商品の開発では、余計なエネルギーや資源を使わないことや商品の耐久性を上げていくこと、商品自体が高効率なエネルギー消費のメカニズムを持つことなどが重要になる。
とくに耐久性を長くし、高効率なエネルギーシステムをビルドインさせて、ライフサイクルを長くしていくことは、今後の人類社会にとって重要だ。
そこで近年注目されているのが「バイオミメティクス(Biomimetics)」「バイオミミクリ(Biomimicry)」といったテクノロジーである。いずれも日本語で「生物模倣技術」と呼ばれるものだ。
バイオ(生物)というと「バイオテクノロジー」が頭に浮かんでくるが、同じバイオでもこちらは生物を科学技術で人間が利用しやすいように改変する学問や技術のことである。対してバイオミメティクスやバイオミミクリは、生物の機能や構造を人間の使う商品に反映させ、商品力を飛躍的に高めたり、まったく違う社会基盤を生み出したりすることである。
ざっくり言えば、前者が既存の生物を科学の力で変えて活用する科学技術であり、対して後者は、自然界の生物の構造や機能を模倣して自然に近い高効率な無駄のない人工物をつくる科学技術と言えよう。
バイオミメティクスもバイオミミクリも共に生物模倣技術と翻訳されているが、より厳密には前者が生物「模倣物」あるいは「擬態物」で、後者が生物「模倣」を意味する。
バイオミミクリは、アメリカのジャニン・ベニュスさんが2002年に著した「Biomimicry: Innovation Inspired by Nature」から知られるようになった言葉だ。ベニュスさんは、著書のなかで生物模倣技術を活用した持続可能な
社会づくりへの寄与を説いている。
バイオミメティクスは、1950年代後半に神経生理学者のオットー・シュミットさんによって提唱された。現在は広く生物模倣全体の概念や研究分野の名称として使われていることが多い。
■「マジックテープ」は代表的バイオミメティクス事例
具体的にバイオミメティクスを活用した製品や人工物にはどのようなものがあるだろうか。
身近な商品として知られるのは、表面に無数の突起物がついた2枚の布の面同士を合わせて使う「面状ファスナー」と呼ばれる留め具だろう。商品名としては「マジックテープ」、「ベルクロ」などが知られており、とくにマジックテープは商品というより一般名詞として浸透している感がある。
面状ファスナーは、1948年にスイスのジョルジュ・デ・メストラルさんがアルプス登山をした際に、野生ごぼうの実が衣類にくっつくのを見て、そのメカニズムを研究し始めたのが開発のきっかけとなった。
野生ごぼうの実の表面には無数の微細な鉤状の突起があり、動物などが触れるとその体毛に鈎が引っかかって付着するというメカニズムであり、野生ごぼうの実はこうして人や動物に付着し、遠隔地まで運ばれることで自分たちの生存圏を広げていたのだ。
面状ファスナーは、この野生ごぼうの実のメカニズムを模して、片面にフック(鈎)状の突起を、もう片面にはループ(輪)状の突起を施し、両面を合わせるとループにフックが引っかかるようにした。メストラルさんはその後1951年に特許申請、1955年に認定された。
日本では1960年、クラレがライセンスを取得し「マジックテープ」として商品化した。とりわけマジックテープは当時開業したばかりの新幹線の座席のカバー部に利用され、一気に認知度が高まり、同社の看板商品となった。
面状ファスナーはその後、さまざまな改良が加えられ、進化していった。フック面とループ面の区別がないタイプや、ループとフックの代わりにマッシュルームのように先端を球状にした突起物を両面に敷きつめ球状部同士引っかかるようにしたタイプ、サメの歯の形状を模したものなどさまざまな面状ファスナーが生まれていった。
その用途も衣類のほか、シューズ、落下防止ベルト、血圧測定具などの医療器具、バッグや財布などの小物・雑貨、玩具などに広がっていった。また着脱に時間をかけない用途、金属などを使えない場における留め具として戦闘服や宇宙服などにも使われている。
■新幹線の先端部の形状も代表的バイオミメティクス
このほかよく知られているのが、新幹線の騒音対策である。
高速で走る新幹線では沿線住民への騒音対策としてバイオミメティクスが活用されている。JR西日本の技術者で日本野鳥の会の会員である仲津英治さんは、フクロウの羽の構造を活用したパンタグラフを500系車両に採用、パンタグラフから出る騒音を減らすことに成功した。フクロウの風切羽には他の鳥にはないようなセレーションと呼ばれる鋸歯状の小さなギザギザがある。フクロウの羽はこの「セレーション」によって空気の流れに渦(ヴォルテックス)を生じさせ、音の原因となる大きな音を生じさせないようにしている。この小さな渦によってフクロウは音を立てることなく、獲物に近づき、狩りを成功させているのである。
JR西日本ではこのフクロウの風切羽の形状を模したパターンをパンタグラフの支柱に導入することによって、従来の騒音を30%削減することに成功している。
このフクロウのセレーションを用いた技術は「ヴォルテックス・ジェネレーター」と呼ばれ、今日では航空機や競技用のスケートブーツ、帽子、自動車などに採用されている。
また高速でトンネルに入ると「ドーン」という大きな音が発生することに頭を悩ましていたJR西日本では、新幹線の形状をカワセミのくちばしの形状を模すことによって、トンネル突入口の騒音を基準である75デシベル以下まで減らすことを実現した。
カワセミは水中に潜る瞬間、急激な抵抗を受けているにもかかわらず、ほとんどしぶきをあげない。これはカワセミのくちばしが空気抵抗を受けにくい形をしているからである。500系新幹線では、このカワセミのくちばし型の先端を採用し、さらに従来モデルに比べて先端を15メートルまで延ばして、車両断面を円形に近い形とすることで空気抵抗を3割減らした。また走行スピードが上がったのにもかかわらず、消費電力は15%も減った。
騒音や空気抵抗の低減はJR東海やJR東日本でも進められ、東海道新幹線の700系車両では先端部がカモノハシと似た形状となっている。
新幹線の空力騒音は速度の6乗に比例して大きくなるとされる。よってどの形状が最適となるかは最高速度にもよる。東海道新幹線の場合は、JR西日本の山陽新幹線やJR東日本の東北新幹線に比べ、最高速度は制限されているもののカーブが多く、また、より多くの乗客を運ぶ必要があったため、先端部をあまり長く伸ばせないという制限があった。JR東海ではこうした事情からシミュレーターを使って独自の形状を開発、その結果が“カモノハシ”と呼ばれる現在の形状に至った。人工的に計算を重ねた結果が自然の形状に近づいたのである。
ちなみにJRでは新幹線の騒音対策は先端形状、パンタグラフ形状のほか、防音壁やレールを支える構造部などでも行われており、バイオミメティクスを含めたさまざまな研究実験が繰り返されている。
■ヤモリ研究から導かれた「ファンデルワールス力」
バイオミメティクスのモデル生物として有名なのは、夜行性のヤモリだ。
ヤモリは大きいものだと体長が20センチメートル以上、重さも数百gになるが、家の壁や天井を歩き回ることができる。ガラスのようなつるつるとした面でも4本の脚をピタリとつけて動き回る。
ヤモリの足にある5本の指の表面には、細かく枝分かれした「セータ」と呼ばれる長さ100ミクロンメートル程の毛がびっしりと生えている。そのセータの先には「スパチュラ」と呼ばれる先端にパッド状の形状を持つさらに細かい毛がある。そのセータとスパチュラ構造によって、対象となる面に触れるとごく短い距離でくっつき合う、分子レベルの「ファンデルワールス力」が働き、ガラスなどの平滑な面を天井からでも落ちることなく接着できるのだ。
ヤモリが動き回るためには接着できるだけでなく、そこから離れることができなければならない。その秘密はセータの先のスパチュラの先端のパッド構造にあるとされる。先端のパッドは斜めとなっており、パッドを引くと接着し、押すと離れるようになっている。つまりヤモリは足を引いていると対象面に吸着し、押すと面から離れる。このベクトルの繰り返しで天井や壁を歩き回っているのである。
■ヤモリのファンデルワールス力を応用した「ヤモリテープ」
このファンデルワールス力を活用したのが日東電工が2012年に開発した、その名も「ヤモリテープ」である。ヤモリのように場所を問わず貼って剥がせるほか、接着面を汚さず、熱にも強いため、一般のほか工業用途で使われている。
日東電工は大阪大学の中山喜萬(よしかず)教授の協力のもと、1平方センチメートルあたり100億本程度のカーボン・ナノチューブを並べたヤモリの足の裏にある微細な毛を再現、500gの重さを保持できるようにした。ヤモリの足は、世界の接着関係の技術者が競って研究開発を進めてきた分野で、接着メカニズムの関連論文は05年から07年にかけて急増している。
このほかバイオミメティクスでとくに開発研究が進んでいるのは、自然の生物の機能を模倣した「撥水」と「親水」技術である。
■身近な場面で活躍している「ロータス効果」商品
撥水機能のもととなる生物の代表が植物の「ハス(蓮)」である。
1997年、ドイツのボン大学のヴィルヘルム・バルトロット(Wilhelm Barthlott)教授はハスの葉の表面の微細構造に注目、ハスの葉には超撥水性とセルフクリーニング(自浄性)があることを見出した。いわゆる「ロータス効果」と呼ばれるものである。
ハスの葉の表面には5から15ミクロンの突起物が、それぞれ20ミクロンから30ミクロンの間隔で配置されており、その表面は分泌されたプラントワックス(植物蝋)と呼ばれる微結晶で覆われている。このプラントワックスは、水に対して相当低い表面自由エネルギーを持っている。表面自由エネルギーとは固体に働く表面張力のことで、これが小さいほど表面張力が高まる。表面張力が高いと水は球体に近くなり、球体が接している固体との角度が150度を超えると「超撥水」と呼ぶ。ハスは葉の表面のナノミ
クロンメートルスケールの階層性を持つ凹凸構造と、分泌されるプラントワックスの化学的効果との相乗効果により、超撥水性とセルフクリーニング機能(ロータス効果)を発現させているのである。
社会ではこのロータス効果を活用した「超撥水性塗料」の傘やレインコート、アウター、フライパンやしゃもじなどの調理器、ヨーグルトの蓋、雪国向けLED信号機、外壁材などさまざまな生活シーンで幅広く利用されている。
日産自動車は、このロータス効果を使った「撥水ウインドウ」を乗用車に採用している。またシチズン時計では、腕時計のガラスの表面にこのロータス効果のコーティングを施して、文字盤に映り込む光の反射を抑えることに成功している。
ユニークなのは先に挙げた雪国向けLED信号機である。これは青森県の県立名久井農業高の高校生の発案で京都大と高校生が実現させたもの。全国でLED信号に置き換えが進んでいるが、熱をほとんど発生させないLED信号は、雪国では冬になると信号に積もった雪が溶けず、見えにくくなる問題があった。高校生たちはヨーグルトの蓋にヨーグルトが付着しなくなった理由にロータス効
果があることを知り、この効果をLED信号に応用できないかと考え、信号機の表面やレンズ面にロータス効果を施すことを提案。京都大主催のアイデアコンテストに応募すると優勝し、実現の運びとなったのだ。
■外壁の汚れ落としはカタツムリに学べ
ハスの技術同様に注目を集めたのがカタツムリだ。カタツムリの殻はサンゴと同じ成分のアラゴナイトとタンパク質の複合材でできている。殻の厚さは0.1ミリ程度であるが、いくつもの層構造からなっており、その最表面層はタンパク質でできている。このため水より油に馴染みやすい性質、つまり油で汚れやすい性質となる。しかしながら、水中においてはカタツムリの殻には油が付着しない。つまり油で汚れにくい性質を持つのである。
調べてみると殻の表面には約0.5ミリ幅の溝と、さらに細かい0.01ミリ幅でシワ模様が形成されており、数ナノからミリサイズまでの幅で凹凸構造があることが判明した。この規則的な多くの溝が家の雨どいのような役割を果たし、殻の表面に水が入り込んで水膜をつくって、付着した油汚れを動かして洗い流すのである。
日本の住設メーカーであるリクシルは、このカタツムリの殻の表面を模倣した(マイクロガード)外壁タイルの開発を進めて「ハルプラス」や「ハルエイジ」、「ハルオール」として実用化した。
■船の大敵フジツボを避ける、海藻のバイオミメティクス「ハイドロゲル塗膜」
汚れは海の産業においても大敵である。とくに船に汚れや貝、フジツボなどが付着すると推進力の低下を招き、エネルギー効率を悪化させる。船底にフジツボが付着すると燃費が最大で40%悪くなるとされる。フジツボのほかにも海には、サンゴやイソギンチャク、ウズマキゴカイ、ホヤ、ムラサキガイなど、船に付着するさまざまな生物がいる。このため船にはこれらの付着物を避けるために、定期的に船底に亜酸化銅や酸化亜鉛を主原料とする塗料を塗る必要がある。しかしこの亜酸化銅や酸化亜鉛には毒性があり、海洋汚染を招く。そこで着目されているのが「ハイドロゲル塗膜」だ。ハイドロゲルは水に溶けない高分子化合物で、水を含むと膨張する。特徴は、表面が水に濡れてプルプル・ツルツルして柔らかいことだ。豆腐やプリンなどもハイドロゲルの一種だ。ハイドロゲル塗膜が注目されているのは、海中の海藻が同じ場所で定着していながら、フジツボなどが付着しないからだ。その理由として考えられたのが、表面がヌルヌル、プルプルとしたハイドロゲル状であることだった。研究が進み、ハイドロゲル状であればフジツボなどの付着がないことがわかったのである。
■モルフォ蝶、タマムシ、孔雀…地球は構造色の宝庫
このほかバイオミメティクスを代表する技術としてよく取り上げられるのが「構造色」である。構造色とは、モノ自体に着色されていないのに表面の凹凸などの構造によって青や緑などの色に見えてしまう技術、およびその構造によって見える色のこと。
この構造色を持つ代表的生物が中南米の森に生息するモルフォ蝶である。モルフォ蝶はタテハ蝶科の一群で、南米大陸から中米地域に約30種ほどが生息している。なかでもモルフォ蝶の鮮やかな青が有名で、モルフォ蝶の固有色のように思われているが、青を発色するのはオスである。この青には色素はない。モルフォ蝶の翅には、2層になった鱗粉があり、この2層に光が当たると屈折・反射・干渉が起こって(多層膜干渉)、青い波長だけが外に飛び出して鮮やかな青色となって認識されるのである。
この構造を模してできたのが帝人の「モルフォテックス」という発色繊維である。帝人はモルフォ蝶の翅の構造を研究し、屈折率の異なる2種類のポリマー(ポリエステルとナイロン)をナノオーダー単位で61層積み重ね、積層の厚みを光学サイズでコントロールすることにより発色繊維の製品化を実現した。基本色としては赤、緑、青、紫の4色がある。
自然界において構造色は、このモルフォ蝶のほか、孔雀の羽、タマムシ、カメレオンの皮膚、カワセミの羽、サバやイワシなどの魚の青や銀色、オパールなど、さまざまある。鎌倉時代に宋からもたらされた茶碗「曜変天目」の鮮やかで妖艶な青も構造色である。また西欧人の青い瞳も構造色である。
■実はシールド工法もバイオミメティクスだった
言うまでもなく生物を模倣した技術はこの数十年で広まったわけではない。その起源については特定できないが、いくつか大きく前進した時代はあった。その1つがルネサンス時代で、その立役者がルネサンスの三大画家として知られたレオナルド・ダ・ヴィンチだ。ダ・ヴィンチは画家としてだけでなく、科学者、発明家、解剖学者としてさまざまな研究と成果を残しており、とくに鳥の飛翔プロセスを解析し、飛行機の原型をつくったとされる。
その後さまざまな科学者や技術者が生物を模倣し、イノベーションを起こしてきた。とくに発展したのが産業革命後である。
典型的な事例が、いまでも広く採用されている土木技術の「シールド工法」だ。シールド工法は、木造船の船体に穴を開ける害虫、フナクイムシにヒントを得て創出された。フナクイムシは二枚貝の1種で、胴がミミズのように細長く柔らかい。しかしながら先頭の頭の部分は、石灰質の大きな円形の硬い貝殻を備えていて、フナクイムシはこの貝殻を使って木材に穴を開けることができるのだ。さらに
フナクイムシは胴体部分から粘液を放出し、開けたトンネルの外側を補強しながら進むことができるのだ。
19世紀前半、このフナクイムシからヒントを得て、シールド工法に挑んだのがマーク・イザムバード・ブルネル(Marc Isambard Brunel)というイギリスで活躍したフランス人の土木技師である。ブルネルはこのシールド工法を使って、テムズ川の下を潜るトンネル工事を成功に導いた。
この工法は、その後の土木工事に大きなインパクトを与えた。日本では1917年、秋田県由利本荘市のJR羽越線、「羽後岩谷」〜「折渡間」にある「折渡トンネル」で、初めてシールド工法が導入された。現在では多くのトンネルがこのシールド工法によって建設されている。
■カイコが作る絹糸の基本骨格から生まれた「ナイロン」
さらに時代が下ると世界の産業を一新するバイオミメティクスが誕生した。1935年にアメリカのデュポンの化学者、ウォーレス・ヒューム・カロザース(Wallace Hume Carothers)が絹糸を模倣して完成させた合成繊維「ナイロン」である。
絹糸は本来、ヤママユガの1種であるカイコが家畜化されて作り出した繭の繊維を利用したもの。絹糸を構成しているのは、グリシンとアラニンを大量に含む特異なアミノ酸配列を持った繊維状の高分子タンパク質である。したがって絹糸そのものを人工的に合成するのは非常に難しかった。
そのためカイコによる絹糸生産は産業革命以降、資本主義の発展と市民生活の向上による衣類のニーズの高まり、それに応える紡績技術の革新によって20世紀前半まで世界中で行われ、養蚕業として一大産業分野を形成した。
しかしその後、世界が石炭から石油の時代に入ると、石油化学産業が発展、さまざまな石油化学製品が誕生し、ついにカイコが作る絹糸の基本骨格であるポリペプチド構造を模倣したナイロンが誕生したのである。ナイロンは石油を原料とした「ポリアミド」からつくられ、絹糸より軽量で耐久性が高く、弾力性があり、染色しやすく、洗濯による劣化が少ないなど多くの特性を持っていた。
発売当初は「蜘蛛の糸より細く、絹よりも美しく、鋼鉄よりも強い」と言ったキャッチフレーズでその丈夫さをアピール、特に女性の足を美しく飾ったストッキング素材として使われると爆発的人気を呼んだ。
このナイロンの発明をきっかけに、「ポリエステル」、「アクリル」、「ビニロン」など次々と化学合成繊維が誕生、現代では絹糸の代用品としての地位をはるかに超え、化学合成繊維が繊維工業界全体に広がっている。
脱炭素を目指す現代において期待されるバイオミメティクスが、その歴史を遡った先に石油を活用した製品が注目を集めていたとは、なんともやるせない気持ちになってしまう。だが石油化学が20世紀の地球文明を発展させたことは間違いない。我々人類はこうした事実を踏まえて、サステナブルな石油化学産業との付き合い方をバイオミメティクスを通じて考えていくことが重要だろう。
■蛾の複眼の応用から生まれた低反射フィルム
持続可能な社会を作り出すためのバイオミメティクスの取り組みはほかにもある。
たとえば明かりの少ない夜中に目的に向かって飛ぶ蛾の複眼構造を模倣して生まれた「低反射フィルム」がその1つ。蛾の目は数十ミクロンの大きさの単眼が集まってできた複眼構造で構成されており、各単眼には数百ナノミクロン単位の突起がある。この構造は「モスアイ」構造と呼ばれ、人間の目に比べて反射の影響を受けにくくなっている。三菱化学はこのモスアイ構造を利用した低反射フィルム「モスマイト」を開発している。室内外のディスプレイなどのほか、自動車のダッシュボードやフロントガラス、美術館や博物館の展示パネル、展示ガラスなどに利用されている。またモスアイ構造には虫が貼り付きにくいという特性があることもわかっている。
■蚊の口針の模倣から生まれた「痛くない」樹脂製採血針
バイオミメティクス活用例では昆虫の構造の模倣が多い。医療ベンチャーの「ライトニックス」は、2012年に糖尿病患者向けの“痛くない”樹脂製採血針「ピンニックス・ライト(PINNIX Light)」を、蚊の口針の構造を応用して開発した。
蚊の口針は、先端が細かいギザギザ状になっているが、この構造は皮膚との接触面積を減らすことになり、細胞の損傷を最低限にとどめて、針を皮膚に滑り込ませることが可能となるので痛みが少なくなっているのだ。使用する針は金属製ではなく世界初の植物性プラスチックで、アレルギーリスクも少なく、かつ使用後は焼却処分ができるので安全性も高い。
■軽くて高強度、素材の無駄もない高効率な構造体「蜂の巣」
正六角柱が集まってつくられるミツバチの巣の基本構造「ハニカム」も、よく利用されるバイオミメティクスである。ハニカムとは英語で「honeycomb」、すなわち「ミツバチの櫛」。ミツバチは高度な社会を築く知能の高い昆虫として知られているが、なぜ六角柱の集合体をつくっているのかは定かではない。1つの部屋の外周と面積の効率を考えると円に近いほどよい。ゆえにミツバチは本当は丸を集めて巣をつくりたがっているのではないかという説もある。ただその場合、隙間が出来てしまうため、隙間の無駄を考えると正六角形のほうが製作上も管理上も最も合理的で、かつ高強度であることからこの形状を選択したとも考えられる。
ハニカム構造は同じ材質であれば高強度・軽量化が図れ、また防音性、断熱性にも優れていることがわかっており、建築物や航空機の翼、新幹線、さまざまな分野で活用されている。またその強度からサッカーのゴールネットにもハニカム構造が採用されている。
このほかイギリスの「ジャンルカ・サントスオッソ・デザイン(Gianluca Santosuosso Design)」社は、ハニカム構造を利用した住宅を開発している。大人2、3人が暮らせるくらいの大きさの六角柱を1つのモジュールとして、居住者のライフステージに合わせて柔軟に家をカスタマイズできるようになっている。たとえば居住スペースの他に仕事をするプライベートルーム、遊び場、あるいは他の住居との共有スペースが必要となったら、六角柱を複数組み合わせながら、ライフステージに合わせて組み合わせていくことができる。
(Gianluca Santosuosso Designサイト)より
■使用用途が極めて多い、卵の殻構造「シェル構造」
ハニカムと同様に意外と使われているのが、卵の殻の構造だ。
卵の殻は薄い割には力を入れないとなかなか割りにくい。これは卵が持つカーブが1カ所にかかる力を分散させているためである。大きな貝殻にも似た形状からこの構造は「シェル構造」と呼ばれる。シェル構造は外側からの圧力に対して強いが、小さな雛がくちばしで中から突いて割ることができるよう、内側からは弱い力で割ることができるのが特徴だ。
このシェル構造を利用したものとして、自動車のフロントガラスや豆電球、飛行機などがある。ドーム型の建造物もシェル構造の例だ。
■ミナミハコフグの形状は高効率な燃費構造
魚やイルカなど、海洋生物もバイオミメティクスの宝庫だ。
すでに魚の形状や鱗などは多くの分野で応用されてきた。スポーツではスポーツウエアメーカーがサメの皮膚やカジキの皮膚などを応用した水着を開発し、オリンピックごとに注目を集めた。とくに2008年の北京オリンピックでは、スピード社が開発した鮫の皮膚を模倣した縫い目のないポリウレタン素材の水着、「レーザー・レーサー」を着用した選手たちが、金メダルを独占したため、大きな話題を呼んだ。現在競技用水着はルールが改正され、素材は繊維のみで厚さは最大0.8ミリ、浮力効果は0.5ニュートン以下、男性はへそを超えず膝まで、女性は肩から膝までなど厳しく制限されている。
こうした魚の形状や鱗、皮膚の機能は水中や水上だけでなく、陸上でも応用されている。
海中を高速で回遊するマグロやカジキなどの紡錘形状は、速さを求める視点からも参考にする部分があるが、必ずしも紡錘形のみが抵抗の少ない形状とは限らないようだ。たとえばあまりスピードが出せないように見えるミナミハコフグは、その体表面を水がスムーズに流れるような合理的な形であることがわかった。ドイツのダイムラー社は、このミナミハコフグの形を生かしたコンセプトカー「バイオニックカー」を開発した。この開発でミナミハコフグの形状は空気を上手に受け流すことができ、燃費を節約できることがわかったほか、その形状から頑強な構造を研究し、効率的で広い空間の確保も実現したという。
日本ペイントと商船三井は、マグロの体表面を覆う粘膜から発想を得て、従来比で燃費を10%削減する船底塗料「A-LF-Sea」を開発している。同社が開発していた従来型の低燃費塗料であるシリル銅アクリル防汚塗料「LFSea」に新しいヒドロゲル技術を組み込むことでウォータートラッピング機能を強化し、燃費低減のほかCO2も10%削減している。
■バイオミメティクスのデパート、家電メーカーのシャープ
総合家電メーカーのシャープでは、全自動洗濯機にイルカの尾びれと表皮のしわを応用した回転して水流を発生させる「パルセーター」を開発、進化させてきた。イルカの尾びれの大きさをパルセーターサイズに換算し、イルカの遊泳速度になるように回転速度を設定している。同社の全自動洗濯機では、表面に採用したイルカの尾びれの形状と、右回転と左回転を交互に繰り返す回転の制御を、イルカが尾びれを上下に蹴りだすリズム(ドルフィンキックパターン)に合わせることによって、回転だけでなく上下の運動が加わり、衣類の入れ替わりがより促進されるようになった。さらに洗浄効率も向上し、洗浄時間の短縮を実現している。
シャープは、家電メーカーのなかでもバイオミメティクスを積極的に活用している企業の1つで、ほかにもドライヤーのファンに鳥類最速と言われるアマツバメの翼の形状を採用してドライ時間を60%カットしたり、冷蔵庫のドアにホタテの凹凸形状を採用して消費電力を20%削減したり、掃除機に猫の舌構造を応用したゴミ圧縮ブレードを導入してゴミを1/5まで圧縮したりなど、さまざまな成果をあげている。
このほかエアコンの室外機にアマツバメやイヌワシ、アホウドリの翼の形状を応用、送風効率を20%アップさせ、また室内機のファンにトンボの羽の形状を応用し、送風効率を30%向上させている。さらに扇風機の羽にアサギマダラ蝶の羽の形状を応用して7枚羽でありながら、14枚羽相当のなめらかな風を実現している。
またふとん乾燥機には送風アタッチメントにきのこの形状を採用し、ふとんのあたため範囲を広げている。ドラム式乾燥機では乾燥ファンの形状にモモンガの滑空姿勢を応用し、風量を20%アップさせるなど、バイオミメティクスのデパートといった状況となっている。
■水上のゴミを食べる「ジンベイザメ」、太陽のエネルギーを追う「ひまわり」
オランダのランマリン・テクノロジー社は、水上に浮かぶゴミを回収するユニークな水上ドローン「ウェイストシャーク(Waste Shark)」を開発した。その特徴はジンベイザメの口の動きを参考にしたことである。ジンベイザメはその大きな口でプランクトンや小魚を豪快に飲み込む。ウェイストシャークは水面ギリギリの高さに設置し、そこから水上に浮かぶゴミをどんどん吸収していく。1日に16時間活動し、最大200リットルのゴミを食べることができるという。
東日本大震災以後、ソーラー発電が全国各地に広がっている。ソーラー発電を選ぶ際は、価格や設置、保守のしやすさなど、いくつか決め手があるが、1番は発電のエネルギー交換効率だろう。ただ主流であるシリコン系パネルのエネルギー交換効率は、理論上29%が限界とされる。
こうしたなかオーストラリアのスマートフラワー社は、ひまわりの特性を利用したソーラーパネル「スマートフラワー」を開発、エネルギーの交換効率を40%にまでアップさせた。同社のソーラーパネルは、ひまわりのように陽光を最大限浴びることができるよう、太陽の動きに合わせて向き
を変えられるようになっている。スマートフラワーは日の出から日没まで常に太陽に対して90度の角度で傾きながら、太陽を追っていく。
■標準化、ネットワーク化でバイオミメティクスを加速させる欧米
このようにバイオミメティクスを応用した製品や技術は確実に生まれている。
とくに今世紀に入ると各研究分野において、バイオミメティクスの新潮流が欧米を中心に展開され、実用化の動きが加速している。
日本においては戦後、繊維産業で生物を模倣した合成繊維などの製品開発が展開。1960年代になると人工皮革が商品化され、また80年代にはハスの葉の機能を応用した撥水効果がある布地が販売されている。近年ではモルフォ蝶の羽の構造を応用した構造色繊維やカワセミのくちばしの形状を真似た新幹線など、日本のバイオミメティクスは話題を集めている。しかしながら日本の場合、個別企業が独自に開発した製品にとどまっており、産業全体で推進するための組織やネットワークが弱かった。
すでにドイツでは2001年にバイオミメティクスの推進団体である「バイオニクス コンピテンス ネットワーク(BIOKON)」が立ち上がっているほか、フランスも関連したネットワークを立ち上げ、バイオミメティクスを国全体で推進している。
日本でも最近はいくつかの研究会や産業団体が立ち上がり、ネットワークが築かれつつある。またバイオミメティクスの国際標準化の活動にも参加し、知識基盤の構築を国際委員会で提案しているが、まだ存在感は薄い。
日本はさまざまな動植物が棲む自然豊かな環境を持つ国である。とりわけ昆虫研究においては一日の長がある。加速する世界の動きに対して後れを取らないためにも、日頃からバイオミメティクスを取り入れた商品開発を意識していきたいものだ。
参考
【書籍】●『トコトンやさしい バイオミメティクスの本』下村雅嗣編著[日刊工業新聞社]●『生物の形や能力を利用する学問 バイオミメティクス』篠原現人・野村周平 編著[東海大学出版部]ほか
【WEB】日経クロステック ●日本経済新聞 ●朝日新聞デジタル ●東洋経済オンライン●シャープ ●日東電工 ●クラレ ●リクシル ●モノタロウ ●日本化学繊維協会 ●日本ITU 協会 ● SDGs コンパス ●三井化学 そざいの魅力 ●京都大学 ●fab cross for エンジニア ●Spaceship Earth ●テクセルセイント●モリト通販サイト ●SBCr Online ●ムシできないムシの世界 ●IDEAS FOR GOOD ●BIOKON ●未来コトハジメ ●Sanyo Trading ●Wired ●Gianluca Santosuosso Design 社 ほか
POINT
■持続可能社会に向けた技術「バイオミメティクス」「バイオミミクリ」
■野ごぼうの実の小さな鈎から生まれた「マジックテープ」
■カワセミから生まれた新幹線のノーズ
■フクロウから生まれた新幹線のパンタグラフの形状
■ハスの葉には超撥水性とセルフクリーニング(自浄性)がある
■カタツムリの殻の形状から生まれたリクシルの防汚タイル
■モルフォ蝶、タマムシ、孔雀…地球は構造色の宝庫
■実はシールド工法もバイオミメティクスだった
■カイコが作る絹糸の基本骨格から生まれた「ナイロン」
■ミナミハコフグから生まれたベンツの“流線型”「バイオニックカー」
■使用用途が極めて多い、卵の殻構造「シェル構造」
■バイオミメティクスのデパート、家電メーカーのシャープ
■ドイツが加速させる「バイオニクス コンピテンス ネットワーク(BIOKON)」
■「蜂の巣」構造は軽くて、強くて、暖かく、涼しい
ビジネスシンカーとは:日常生活の中で、ふと入ってきて耳や頭から離れなくなった言葉や現象、ずっと抱いてきた疑問などについて、50種以上のメディアに関わってきたライターが、多角的視点で解き明かすビジネスコラム