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知ってた?江戸時代に「士農工商」の身分制度はなかった!!こんなに変わっている教科書最新情報

■鎌倉幕府成立は、「いいくにつくろう」から「いいはこつくろう」へ

 教科書というとある種の「絶対感」を伴う社会の常識であり、仕事の基礎情報である。だが教科書に記載されていたからと言って「絶対」というわけではない。後から新発見があったり新技術が生まれれば、教科書の記述も変わってくる。とくに技術進化が激しい理科系の教科書はどんどんアップデートされるが、理科系だけでなく文系の教科でも、改訂のために内容が大きく変わっている。
 例えば日本史。
 一昔前の世代なら、鎌倉幕府の成立は「いいくにつくろう鎌倉幕府」、すなわち1192年と教わっているはずだ。しかし現在の教科書では「いいはこつくろう鎌倉幕府」、つまり1185年になっている。ただし1185年が確定というわけでもなく、教科書によっては「1185年から1192年の間に成立」という曖昧な表現にとどめているところもある。大半の専門家が一致している年が1185年であるということだ。
 21世紀の現在からすれば900年前の7年くらいの変化は、特段現在の日常に影響を与えるものではない。気にしなくてもいいだろう。だがビジネスを進めるうえで正しい情報に則ることは、ビジネスの原則であり、新しい情報にアップデートしておくことは習慣化しておいた方がいい。
 そもそも1185年と1192年では何が違うのか。1185年は平家を壇ノ浦の戦いで壊滅させ、守護・地頭を設置した年で、行政組織と警察組織を整備した年になる。途中1190年では源頼朝が律令制における武官の最高位である右近衛大将、総地頭に任ぜられた。そして1192年に朝廷から征夷大将軍に任ぜられた。1185年は、必ずしも朝廷からの権限付与=幕府成立ではない、という意見から出された年だ。征夷大将軍の起こりからすれば、朝廷から認められる1192年が理にかなっているが、朝廷権力とは別系統として武家社会の確立を重視するなら1185年となるのだろう。今のところどれを成立年とするかは、教科書執筆者の判断に委ねられている。

■最も古い貨幣は「富本銭」

 このほか年号は新しい発見があると更新される。日本で使われた最も古い貨幣というとどう答えるだろうか。昭和世代であれば確実に「和同開珎」と書くのでないだろうか。だが令和の時代は「富本銭」である。これは解釈が変わったのではなく、単純により古い貨幣が発見されたからだ。和同開珎は西暦708年に鋳造されているが、富本銭はさらに20年ほど古い683年に製造されていた。

富本銭(イメージ図)

 「大化の改新」も年が変わった。これは中大兄皇子や中臣鎌足らが力をつけていた蘇我氏を倒した日本初のクーデターから始まる一連の改革だが、実質的に改革が行われたのは646年からで、645年のクーデターそのものは「乙巳の変(いっしのへん)」と呼び分けて説明している。

■江戸時代に「士農工商」はなかった!!

 歴史教科書において出来事の年や時期が変わることは比較的ありがちだが、近年はゴシック体で表記されていた重要事項が消えてしまうこともある。
 江戸時代の「士農工商」はその代表だろう。江戸幕府が260年もの長きわたって続いたのは、徳川家康が身分制度「士農工商」を確立させ、維持してきたからとされる。しかしこの「士農工商」の記述は2000年以降、教科書から消えている。近代史の研究が進み、「士」「農」「工」「商」という上下関係は存在しなかったことがわかってきたからだ。現在の教科書では、「武士」と「町人・百姓」という分け方で説明されている。町人と百姓が並列表記されているのは、城下町に住んでいれば町人であり、村に住んでいるのであれば百姓ということになるからだ。また「百姓」の範囲は、農業に従事する人だけを指すのではなく、漁業や林業に従事する人も含んでいた。「百姓=農民」ではなかったのだ。現在「百姓」という用語は蔑称としてマスメディアでは使わないことが原則となっている。それは百姓が身分制度のなかで、低く貧しい存在として認識されてきたことがある。しかし、ときに町人で村人、農家であり林業家、漁業家である存在の百姓とはその字面通り、各地に存在し、国の根幹を支えた市民であり労働者で生産者であると解釈すれば、百姓の印象や言葉の位置づけも大きく変わっていくかもしれない。
 現代社会にはこうしたタブー視されている言動が多いが、その背景や理由を理解せず、あるいは更新せずに使っているとさまざまなトラブルや摩擦を生む可能性が高いので、気をつけたいところだ。

■日本は江戸時代、鎖国していたんじゃないの?

 「士農工商がなかった」と同じくらいのインパクトを与えつつあるのが、「鎖国」である。鎖国とは外国との交易を閉ざして、いわば自給自足で運営する国家の状態を指す。日本史では江戸時代に入って1639年に完成し、ペリー来航によって浦賀が開かれた1854年までの約200年を指しているが、この間まったく海外と交易していなかったわけではない。オランダと中国(清)、李氏朝鮮、そして当時は独立国であった琉球との4カ国と交易をしていたことを踏まえ、明確に各国との交流を行っていたのではなく、「いわゆる鎖国」、「鎖国と呼ばれる状態」など、カッコ付きで表す教科書が増えてきた。歴史教科書でトップシェアを誇る山川出版が発行している高校日本史では、鎖国という言葉を使わず「江戸時代は国を閉ざしたのではなく、唯一の開港地長崎に渡来を特許したオランダ・中国商人と貿易し、(中略)東アジアの諸国・諸民族とのあいだに、自国を中心とした通交・貿易体制を築いていた」といった説明をしている。

■関ケ原の西軍の総大将は石田三成ではなかった!

 鎌倉幕府の成立年はいまだに揺らいでいるが、いまのところ江戸幕府の成立年、1603年は変わっていない。だがその江戸幕府成立のきっかけとなった1600年の関ケ原の戦いの認識は大きく変わっている。

石田三成像

 関ケ原の戦いは日本の武士たちが東西に分かれて戦った「天下分け目の戦い」で、その後の日本の形を決めた。この戦いで総大将を務めたのが、従来の教科書では東軍が徳川家康で、西軍は石田三成となっていた。だが最新の教科書では西軍の総大将は三成ではなく、安芸(広島)の毛利輝元となっている。毛利輝元は三本の矢の逸話で知られる毛利元就の孫で豊臣秀吉政権の「五大老」の1人。同じ五大老の1人である徳川家康との合戦をしかけたのは、五奉行の1人である三成で、三成が提言し輝元がこれに応じたのである。五大老は、企業で言えば取締役で、五奉行はそれぞれの業務を遂行する本部長的存在。三成が五奉行の1人である家康と対峙するには、五大老の誰かを味方につける必要があったのだ。輝元はその後西軍の総大将に推挙されて、大坂城で総指揮を執ることになる。輝元は関ケ原の現地には養子の秀元を送り、現地の指揮は三成に任せた。輝元自身は大坂城でその他の地の軍略を指揮していた。その他の地とは、九州や四国である。輝元は関ケ原の戦いだけでなく、その後の安定を図るためには西日本を制圧する必要があると考えていたのだ。つまり、家康は関ケ原の戦いを天下統一のための最大の合戦と捉えていたが、輝元は大きな合戦ではあるものの、秀吉の跡目争いの1つとしていたのだ。

関ケ原の合戦の西軍総大将は毛利輝元

 関ケ原の戦いは西軍の数が多く、優勢だったが、西軍の小早川秀秋の寝返りなどがあって家康に軍配が上がったとされる。しかし輝元が派遣した秀元軍が動かなかったことも大きかった。もっと細かく言えば、現場で先陣として構えていた輝元のいとこである吉川広家の軍が動かなかったため、秀元がどうすることもできず、合戦に参加できなかった。吉川軍が動かなかったのは、家康と密通していたとも言われているが、結果毛利軍が動かないため近くで陣を敷いた長束正家や長宗我部盛親らも疑心暗鬼となり、積極的に動かず実質3万の兵が無駄になったとされている。

■存在が薄れていく聖徳太子は、厩戸皇子が正式に

 歴史の教科書では人名や事物の名称の変更も多い。
 今年7月、お札が刷新されたがそれに伴い肖像人物も一新された。最高額面の10,000円札は福沢諭吉から明治を代表する起業家である渋沢栄一に変わったが、福沢の前に長らく10,000円札の顔として採用されていたのが聖徳太子だ。聖徳太子像は1930年に百円札に登場して以降、7度にわたってお札の「顔」を務めている。これは歴代肖像画では最も多い。これだけ採用された理由は、日本銀行の説明によると「憲法十七条の制定」や仏教の保護、中国との国交回復や遣隋使の派遣により大陸文化を採り入れたことなど、内外に数多くの業績を残し、かつ国民から敬愛され知名度も高く、歴史上の事実を実証したり、肖像を描くためのしっかりした材料があることが大きな理由となっている。
 だが教科書ではこの「しっかりした資料」が近年揺らいでいることから、聖徳太子の業績の扱いを減らしているのだ。それだけでなく聖徳太子の表記を厩戸皇子に変更する教科書や併記する教科書が増えている。
 「太子」とは「皇太子」の意味を持つのだが、聖徳太子が生きた時代はそもそも「天皇」や「皇太子」の呼び名や制度が成立している可能性が低いことが資料からわかっている。聖徳太子の呼び名と実績は、奈良時代前半の「日本書紀」に依拠しているが、日本書紀が編まれた時代が聖徳太子の死後のおよそ1世紀後であり、正確性に乏しいということなってきたのである。
 こうした状況から「聖徳太子」の存在自体を否定する説も出ている。しかし、その記述内容を分析していくと、「厩戸王」と言われた人物が実在していることはわかっており、奈良県斑鳩の地に斑鳩宮や斑鳩寺(法隆寺)を営むほどの有力な王族であったことや、中国の『隋書』などからも、倭国に中国の太子に相応するような有力な王子がいるとみていたことなどから存在は確実視されている。しかし聖徳太子として憲法十七条や冠位十二階を制定したとは考えられていない。近年の説では有能な教養人が聖徳太子の名を借りてつくったというのもある。よって厩戸皇子かカッコ付きの聖徳太子となったという次第だ。また厩戸皇子が日銀のいうような「内外に数多くの業績を残」す、八面六臂の活躍をしたことに対する疑問もあり、教科書における厩戸皇子(聖徳太子)の記述量は減っている。聖徳太子実在論争はいまだ続いており、今後、その表記も変わってくる可能性もある。それだけでなく見慣れた正装姿の肖像画から変わる可能性もある。

聖徳太子(中央)は厩戸皇子へ?

■坂本龍馬、吉田松陰、高杉晋作…幕末維新の志士が消えていく

 歴史上の偉人の評価が変わってくるケースは、少なくない。消えゆくのは幕末の志士が多い。幕末で群を抜く知名度を誇るのが坂本龍馬である。時代の先を読んで各地の藩士をつなぎ、「日本の夜明け」を先導した人物として数々の小説やドラマ、映画、アニメの題材となってきた。歴史ファンだけでなく経営者にもファンが多い。だが最新の教科書では坂本龍馬の名は消えつつある。
 坂本龍馬が実際に政治に関わり「日本の夜明け」を先導したとされる史実があまりないというのが理由だ。たとえば、従来坂本龍馬は大政奉還を推し進めた中心的人物と書かれていたが、実際はそれほど大きな影響を与えてはいなかったとされる。大政奉還は幕府がその政権を朝廷に返還することを意味するが、このアイデアは当時の土佐藩の重臣だった後藤象二郎と龍馬が練って藩主の山内家を通して勧め、実現したと言われてきた。その案の根拠となっているのが、龍馬が立案したといわれる「船中八策」で、江戸幕府が消滅した後の日本がどのような体制で臨むべきかを書いたものだ。しかしこの船中八策は研究者の間では龍馬が書いたものではなく、後世に創作されたとされている。
 また大政奉還後、龍馬は「新政府綱領八策」も書いたとされるが、維新後の明治政府に影響を与えた形跡はないと言われている。そのほか薩長同盟では龍馬が薩摩藩と長州藩の仲介を積極的に行い、実現したように思われているが、無関係ではなかったものの、龍馬の仲介で同盟が結ばれたわけではないことがわかっている。ほかに長州藩が薩摩名義で武器を購入した際、龍馬が発案・仲介したとされるが、木戸孝允の回想録では確かに龍馬の名前が出てくるが、実際に彼が仲介した形跡がないのである。
 実績だけを確認していくと坂本龍馬の業績が創作的であることが多く、明治維新、大政奉還後の日本の近代化に与えた政策的影響はそれほど大きくないことが判明し、坂本龍馬の名前が最近の日本史の教科書から消えつつあるのだ。

坂本龍馬

 坂本龍馬だけでなく、他の幕末の志士たちも消えつつある。たとえば吉田松陰。長州藩で松下村塾を開き、のちに明治政府の立役者となった桂小五郎や井上馨などが塾生として学んだことから、明治維新に多大な影響を与えた志士として知られるが、松蔭が日本の未来を読んで彼らを指導したわけではなかった。そもそも松下村塾は松蔭が設立した塾ではなく、1842年に松蔭の叔父がつくり、1859年に松蔭が引き継いだ。そして松蔭は1859年に他界しているので、2年でどれほどのことが教えられ、影響を与えられたか疑問が残るのだ。ほかにも高杉晋作にもその活動についてはフィクションの部分が多いため、消える、もしくは扱いが小さくなってきている。

吉田松陰像

■悪役人、暴君のイメージだった田沼意次、徳川綱吉の評価がアップ

 歴史のなかでは、評価が下がる人物もいれば、評価が上がる人物もいる。たとえば、田沼意次。従来の日本史の教科書のなかでは、財政改革の推進者として知られる一方で、賄賂政治を広めた悪役人のイメージが強かった。意次は従来年貢だけだった税収源を株仲間を公認として「運上」や「冥加」といった新たな税収を課し、また対外貿易を強化して、従来出ていく一方だった金や銀に代わって、干した海産物や銅を輸出し、金銀を輸入した。意次は増えた税収を使って印旛沼や蝦夷地の開拓を進め、また新田開発を推奨して年貢も増やした。それらは奏功し、ジリジリと悪化していた幕府の財政を好転させた。活況を呈した市中では、さまざまな学問、文芸が発展した。
 商取引が活発化し、貨幣が市中に出回るようになれば、それによって賄賂が増えるのは世の常でもある。当時の文化として有力者への付け届けは当然のことで、最高権力者である意次に贈り物が集中するのは当然だった。ではなぜ意次だけ「賄賂役人」のイメージがついたのか。それは意次を失脚に追いやった松平定信一派の仕業であったというのが最近の定説だ。急激な経済好転、成長は格差を生みやすい。そこを飢饉が襲った。数年にわたって餓死者、病死者が出続け、江戸では庶民が打ち壊し騒動を起こして、無政府状態となった。さらに後ろ盾だった徳川家治が他界する。さまざまな要因が重なり意次は失脚した。

幕府の財政を好転させた田沼意次像

 評価が変わった代表的人物が、「生類憐みの令」を発令した別名犬公方こと5代将軍、徳川綱吉である。犬好きの綱吉が、人間の命より犬の命を優先したため、庶民生活は大混乱に至ったというのが定説だった。確かに混乱を来しているが、最近の教科書では、生類憐みの令は動物だけでなく捨て子や病人、高齢者も対象となり、生命や自然を尊重するという道徳の定着をもたらす意義もあったと書かれている。

評価が高くなった徳川綱吉

 こうした従来悪評が高かった人物像について再評価がなされているのは、歴史の評価は一面的ではなく、多様な価値軸で評価すべきとの動きが高まっているからでもある。

■源頼朝像、実は足利尊氏の弟、足利直義だった!

 歴史の教科書においては過去の肖像画が変わることもよくある。
 最近の例では従来使われてきた源頼朝像が頼朝ではなく、室町幕府の征夷大将軍である足利尊氏の弟である足利直義像とされるようになった。なぜ源頼朝像だと言われてきたのかというと、この絵を保管してきた京都の神護寺が、この絵は平安時代末期に活躍した文人で似絵画家である藤原隆信が描いた作であると「代々伝わっているから」と主張してきたためだ。しかしこの絵に描かれた刀の紋が足利家の家紋である桐を使っていることや、ほかに残っている頼朝像の彫像と比べても違いがありすぎることら、源頼朝ではなく足利直義説が有力となっている。この絵は神護寺にある藤原隆信が描いたとされる神護寺三像と呼ばれる1枚で、この「頼朝像」のほか「平重盛像」、「藤原光能(ふじわらのみつよし)」と2枚がある。いずれも国宝となっているが、頼朝像が足利直義に変わったことで、重盛像が兄の足利尊氏、光能像が足利義詮(あしかがよしあきら)だとするのが有力になっている。描かれた時期も鎌倉時代ではなく南北朝が濃厚で、したがって絵師も藤原隆信以外の人物が有力になっている。

かつて源頼朝像とされていた足利直義像

■コロン、マガリャンイスって誰?外国人表記はより原語に近い表記に

 このほか、人物では呼び方が変わっている。たとえば「人民の人民による人民のための政治」を掲げたアメリカの16代大統領は、かつては誰もが「リンカーン」と呼んでいたが、最新の教科書では「リンカン」。第二次世界大戦時の32代大統領は「ルーズベルト」だったが、現在では「ローズベルト」あるいは「ローズヴェルト」と表記するようになっている。さらにアメリカ大陸を発見したスペインの冒険家「コロンブス」は「コロン」、マゼラン海峡を発見した「マゼラン」は「マガリャンイス」と表記される例も出てきた。より現地の発音に近い表記になってきているのが、最近の傾向だ。

マゼラン(マガリャンイス)

 ほかにも教科書の変更点はたくさんある。中学や高校で成績が良かったからと言って安心せず、謙虚にアップデートしておきたいところだ。

参考
<図書>●『昔とはここまで違う! 歴史教科書の新常識』濱田浩一郎[彩図社]●『教科書の常識がくつがえる! 最新の日本史』河合敦[青春新書]
<Web>●Japaaan ●PRESIDENT Online●チームでの個別指導塾 大成会 ●内閣府 ●ノジュール ●ランキングー ●山田五郎 オトナの教養講座 ●JPress ●熟年大学(一般教養科目)講座●ダ・ヴィンチweb ●日本経済新聞 ●ホームメイト ●nippon.com ●サライ ●artscape ほか

ビジネスシンカーとは:日常生活の中で、ふと入ってきて耳や頭から離れなくなった言葉や現象、ずっと抱いてきた疑問などについて、50種以上のメディアに関わってきたライターが、多角的視点で解き明かすビジネスコラム

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