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キャッシュレス時代だからこそ考えておきたい紙幣に描かれた肖像画の社会学 2

 前回取り上げた紙幣の肖像画では、かなりの世界史通の人でも耳慣れない人物が出てきて驚いた人も多いだろう。でも地域の傾向などもなんとなく読めたのではないだろうか。中南米やアジア、アフリカは建国のために尽くし、かつ命を落とした偉人が多い。ヨーロッパでは多言語と他分野の学問を修めた万能派の偉人が見受けられるようだ。今回も各国を牽引してきた人々を紹介してみよう。

各国の紙幣の顔となった人たち

■常備軍を廃止した人物を採用ーコスタリカ

【14】コスタリカ(コスタリカ・コロン)
 紛争の多い中米で軍隊の常備軍を持たない政策を取り続けるコスタリカ。独立に関わった政治家、活動家、教育者、弁護士などのほか、作家なども採用されている。
 1,000コロン―ブラウリオ・カリージョ・コリーナ:弁護士。実業家。政治家。コスタリカ第3代大統領。コスタリカ中央渓谷とカリブ海を結ぶ道路網の建設を行い、コーヒーなどのコスタリカ産品の輸出増に貢献、市民サービスの向上や国の開発に尽力した。
 2,000コロン―マウロ・フェルナンデス・デ・アクーニャ:弁護士。大学教授。政治家。商務大臣、教育大臣を歴任。1904年から05年まで国会議長。とくに教育面で多大なる功績があった。1955年祖国功労者。
 5,000コロン―アルフレド・ゴンザレス・フローレス:弁護士。政治家。第24代目大統領。国立銀行(現中央銀行)を設立。教師養成のための師範学校の設立などのほか、税制面での改革を行った。祖国功労者。
 10,000コロン―ホセ・フィゲーレス・フェレール:政治家。第32代・34代・38代大統領。コスタリカ内戦の勝利者で第二共和国の創始者。大統領在任中に、常備軍の廃止、銀行の国有化、女性およびアフリカ系コスタリカ人に対する選挙権の付与等を行う。このほかコスタリカ国立大学、コーヒー院、観光局、国家住宅・都市局、国家生産審議会、国立シンフォニー・オーケストラ等の組織を創設した。

ホセ・フィゲーレス・フェレール

 20,000コロン―カルメン・リラ:作家。教育者。政治家。コスタリカで最初の女性作家で、コスタ
リカ共産党の共同設立者。コスタリカ初のモンテソーリ学校の設立者であるほか、最初の女性労働組合の結成者でもある。祖国功労者。

カルメン・リラ

 50,000コロン―リカルド・ヒメネス・オレアムーロ:政治家。大統領。国会議長、最高裁判所長官、大統領という三権の長を務めた最初の人物。地震で大きな被害を受けたカルタゴの再興に尽力した。公共建築、道路、橋梁、下水道の整備、ナショナル・スタジアムの建設、健康省の設立などの業績がある。祖国功労者。

【15】ペルー(ソル)
 政治家や革命家、活動家のほか作家、詩人、画家、大学教授など幅広い分野で採用。
 10ソル―ホセ・アベラルド・キニョネス・ゴンザレス:軍人飛行士。1941年のペルー・エクアドル戦争におけるサルミージャの戦いで戦果をあげたが、同年7月23日にエクアドル軍の砲撃で墜落死した。1966年政府は法律で彼を国民的英雄とし、7月23日は「ペルー空軍の日」となった。
 20ソル―ラウール・ポーラス・バレネチェア:外交官。歴史家。政治家。哲学・歴史・文学博士。1957年上院議長。ペルー外交の指導的人物であり、卓越したヒスパニストの歴史家として知られる。著作には、「インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベガ」や「ピサーロ」等ペルーの歴史関連の書籍が多数ある。
 50ソル―アブラハム・バルデロマール・ピント:ペルーの語り手。詩人。エッセイスト。ジャーナリスト。劇作家。ペルーにおけるアヴァンギャルドの創始者。インカ時代のケチュア社会など、先住民のストーリーを多く取り上げた。代表作に「肺結核者の町」「カルメロ紳士」「太陽の息子たち」など。
 100ソル―ホルヘ・バサドレ:歴史家。文芸評論家。政治家。教育大臣を2期務めたほか、ペルー国立図書館館長、サンマルコス大学、ペルーカトリック大学教授等を歴任。ペルーの近代史について多数の著作がある。
 200ソル―サンタ・ローサ・デ・リマ:16〜17世紀に活躍したペルー生まれの聖女。厳しい苦行を行ったことで知られており、31歳で死亡。死後クレメンス10世により列聖された。ペルーでは刺繍や庭師の守護聖人となっており、ペルー国家警察のほか、パラグアイ国家警察、アルゼンチン陸軍の守護聖人ともなっている。8月30日は「サンタ・ローサの日」としてペルーの祝日となっている。

【16】ボリビア(ボリビアーノス)
 政治家や革命家、活動家のほか作家、詩人、画家など幅広い分野で採用している。
 10ボリビアーノス―セシリオ・グスマン・デ・ロハス:ボリビア先住民の画家。20世紀前半の「インディへニスモ運動」のリーダーとして、ボリビアの絵画における民族的価値の回復に尽力した。代表作に「自然の勝利」、「アイドルの接吻」など。50歳で自殺。
 20ボリビアーノス―パンタレオン・ダレンセ:法律家。「ボリビアの司法の父」と呼ばれている。ボリビア最高裁判所長官を長年にわたり務めた。生まれ故郷のオルロ州の1つの県が彼の名前をとっている。
 50ボリビアーノス―メルチョール・ペレス・デ・ホルギン:画家。ボリビアの歴史上最高画家の一人とされる。宗教画を中心に描き、代表作に「最後の審判」、「副王モルシージョのポトシ入場」、「天使」などがある。
 100ボリビアーノス―ガブリエル・レネ・モレノ:歴史家。文芸批評家。教育者。「ボリビアの著述家のプリンス」と呼ばれる。ボリビア、チリ、ペルーの文献整理に貢献し、ボリビア史上最も偉大な研究者とされる。その作品や文献記録は「ボリビア古文書館」の創設に役立っている。生まれ故郷のサンタクルスには、本人の名前をとった大学がある。
 200ボリビアーノス―フランツ・タマヨ・ソラレス:作家。詩人。哲学者。政治家。知識人。アイマラとスペインのメスティーソ。外務大臣を歴任した。出身地に本人の名前をとった大学がある。

■ノーベル文学賞候補に数度挙がった女流詩人ーウルグアイ

【18】ウルグアイ(ウルグアイ・ペソ)
 作家や詩人、画家、作曲家など多彩に採用。インフレ率が高いため、紙幣の種類も多い。
 20ペソ―フアン・ソリージャ・デ・サン・マルティン:詩人。作家。ジャーナリスト。教育者。外交官。スペイン大使やラ・レプブリカ大学教授を務める。ウルグアイの代表的詩人。代表作に「タバレー」、「祖国の伝説」がある。新聞「El Bien Publico」の創設者でもある。
 50ペソ―ホセ・ペドロ・バレラ:科学者。ジャーナリスト。政治家。教育者。無料の義務教育と世俗教育を主張し働きかけ、1876年に実現。
 100ペソ―エドゥアルド・ファビー二:作曲家。バイオリニスト。ウルグアイで最も偉大なクラシック音楽作曲家。ベルギー留学を経て在米ウルグアイ大使館に芸術担当官として駐在。ウルグアイ音楽院を設立し、1913年に室内楽協会を共同設立した。代表作に交響曲「Campo」、交響曲「セイボの島」など。
 200ペソ―ペドロ・フィガーリ:画家。法律家。作家。政治家。ラテンアメリカの芸術の世界にアイデンティティ革命を起こしたと言われている。作風はプリミティブ派と言われる。首都モンテビデオには「フィガーリ美術館」があり、その功績を称え「フィガーリ賞」が1995年に設けられた。

ペドロ・フィガーリ
La Muerte(ペドロ・フィガーリ)

 500ペソ―アルフレド・バスケス・アセベド:法律家。政治家。教育者。アルゼンチン生まれでウルグアイに帰化。国家行政審議会のメンバー、上院議員、下院議員を務める。民法、刑法の著作もある。ラ・レプブリカ大学の学長を3期務めた。
 1,000ペソ―フアナ・デ・イバルボウロウ:ラテンアメリカで最も人気のある詩人の1人とされる。自然とエロチズム、死をテーマの作品を多くつくり、1979年には「ラテンアメリカのフアナ」の称号を受ける。ウルグアイで紙幣の顔になった最初の女性。過去3度ノーベル文学賞に名前が挙がった。代表作に「ダイヤモンドの音」「救いの女神」「最期のバラ」「黄金と苦悩」「チコ・カルロ」など。

フアナ・デ・イバルボウロウ

 2,000ペソ―ダマソ・アントニオ・ララナーガ:宗教家。建築家。外交官。植物学者。外交官としてウルグアイの国家誕生のために貢献。ウルグアイ国立図書館、ウルグアイ国立大学の創設者の一人。

■建国の父である毛沢東のみー中華人民共和国

【19】中華人民共和国(人民元)
中華人民共和国の建国者毛沢東のみが描かれている。
 1元―毛沢東:中華人民共和国の建国者。中国共産党創立者メンバーの1人。政治家。思想家。日中戦争後の中国内戦で蒋介石率いる中華民国政府と戦い、蒋介石を台湾に追放した。
 5元/ 10元/ 20元/ 50元/ 100元―毛沢東

【20】中華民国(ニュー台湾ドル)
 中華民国の建設者と現代の社会情勢が描かれている。
 100ニュー台湾ドル―孫文:初代中華民国臨時大統領。中国国民党総理。革命家。政治家。中国革命の父とされ、中華民国の国父と呼ばれる。
 200ニュー台湾ドル―蒋介石:中華民国初代総統。軍人。政治家。北伐を主導し、現在の中華人民共和国を中華民国として統一したが、毛沢東の中国共産党との戦いに敗れ、台湾に移った。
 500ニュー台湾ドル―少年野球チーム/台湾梅花鹿と大霸尖山
 1,000ニュー台湾ドル―学校教育の様子
 2,000ニュー台湾ドル―科学技術

【21】ベトナム(ベトナム・ドン)
 人物は建国の父であるホー・チ・ミンのみ。紙幣の種類が多いのが特徴。
 100ドン―ホー・チ・ミン:初代ベトナム民主共和国首席。ベトナム労働党中央委員会主席。ベトナム独立運動の指導者。政治家。革命家。
 200ドン/ 500ドン/ 1,000ドン/ 2,000ドン/ 5,000ドン/ 10,000ドン/ 20,000ドン/ 50,000ドン/ 100,000ドン/ 200,000ドン/ 500,000ドン―ホー・チ・ミン

【22】ラオス(キープ)
 建国の父で初代ラオス人民民主共和国首相のカイソーン・ポムウィハーンのみ。紙幣の種類が多い。
 500キープ―カイソーン・ポムウィハーン:政治家。革命家。初代ラオス人民民主共和国首相。初代ラオス人民革命党中央委員会書記長。ハノイ大学で法律を学ぶも2年後、日本軍の侵攻で大学は閉鎖されると、ベトナムで反植民地運動に参加。1940年代前半にはラオ・イサラ(自由ラオス)政府の反仏運動の末端で活動。ラオス北東部のベトナム国境地域での宣伝工作を担う「上ラオス突撃隊」が設置されると、隊長に抜擢される。1949年にインドシナ共産党に入党。1950年「ラオス自由戦線」の中央委員に選出され、臨時抗戦政府の国防相に就任。内戦終結後の1975年にラオス人民民主共和国が建国されると初代首相に就任した。建国後は急速な社会主義化を進めたが、社会的混乱を来したため、1979年からは部分的に市場経済を導入した。その後経済的な停滞が続くと「チンタナカーン・マイ(新思考)」政策を提唱して社会主義の枠内での経済自由化・開放化を進めた。

カイソーン・ポムウィハーン

 1,000キープ/ 2,000キープ/ 5,000キープ/ 10,000キープ/ 20,000キープ/ 50,000キープ/ 100,000キープ―カイソーン・ポムウィハーン

【23】タイ(バーツ)
 現国王のみ。存命の人物を採用する珍しい紙幣の1つ。
 20バーツ―ラーマ10世:タイ王国チャクリー王朝第10代国王。イギリス、オーストラリアでの留学経験がある。帰国後はタイ王国の軍事頭脳として陸軍での役職をこなし、アメリカ、イギリス、オーストラリアの合同演習の指揮を採った経験もある。2016年に父ラーマ9世の崩御を受け、国王に就任。
 50バーツ/ 100バーツ/ 500バーツ/ 1,000バーツ―ラーマ10世

【24】マレーシア(リンギット)
 初代首相のみ。
 1リンギット―トゥンク・アブドゥル・ラーマン:マレーシア初代首相。イギリス領マラヤ時代のモスリム国家である第24代クダ王国のスルタンの第14子。8歳でバンコクに留学し、その後イギリスのケンブリッジ大学に留学。第二次世界大戦後帰国、法律事務所に務めるが、ナショナリズムの高まりを受け、統一マレー国民組織に入党、内部の路線対立から党首に就任する。1955年に憲政史上初の総選挙
が行われ、統一マレー国民組織がマレーシア華人協会と連携して圧倒的多数を実現。独立のための交渉団を結成し、イギリスと交渉、マラヤ独立を実現した。
 2リンギット/ 5リンギット/ 10リンギット/ 20リンギット/ 50リンギット/ 100リンギット―トゥアンク・アブドゥル・ラーマン

【25】シンガポール(シンガポール・ドル)
 初代大統領のみ。日本では長年首相を務め、シンガポールの近代化に貢献したリー・クアンユーの圧倒的主導力に目が行くが、紙幣の肖像にはなっていない。
 2ドル―ユソフ・ビン・イサーク:ジャーリスト。シンガポール初代大統領。マレーシア生まれ。1939年にシンガポールで「ウトゥサン・ムラユ」という新聞を創刊するも、日本軍のシンガポール侵攻により発刊停止となる。一度マレーシアに戻ったが戦後復活させた。シンガポールがマレーシアとは別の独立国家になった時、リー・クアンユーが率いる人民行動党が総選挙で勝利を収め、クアンユーの求めに応じて国家元首となった。独立後は多数派である華人と優遇政策を求めるマレー人の間で軋轢が起こったが、イサークは多文化政策を一貫して続けた。
 5ドル/ 10ドル/ 50ドル/ 100ドル―ユソフ・ビン・イサーク

■多島国家、多民族、多宗教の独立史がわかるーインドネシア

【26】インドネシア(ルピア)
 政治家、活動家、軍人など。多島国家であり、かつ多宗教、多民族国家であることから、独立統一に貢献した人が中心。“戦後” のスタートが日本とだいぶ違っていることが伺える。
 1,000ルピア―チュ・ニャ・ムティア:19世紀後半の革命家。女性ゲリラ戦士。当時オランダとの戦争においてゲリラ戦を指導。アチェ生まれ。オランダのアチェ支配に反発し、反オランダ闘争に加わる。夫ムハンマドと奇襲でオランダ軍の防衛拠点を攻略し、オランダ軍兵士10人を殺害して67丁の銃を奪う。1905年にムハンマドが捕縛され、収監先で銃殺される。その後再婚した新しい指導者ナングロとともに反オランダ闘争を続けるが、ナングロも戦死。彼女は残されたゲリラ兵士とともに闘争を続けるが、敗北し、逃げ込んだ隠れ家でオランダ軍に射殺された。

チュ・ニャ・ムティア(1,000ルピア札)

 2,000ルピア―モハマド・フスニ・タムリン:政治家。実業家。民族運動家。オランダ統治下において、インドネシア語やインドネシア国歌の使用を国会で進言。いくつかの政府関係の仕事と海運会社に10年勤務後、インドネシア領下のジャカルタ市議となり、1927年インドネシア総督から国民国会議員に任命される。30年に民族主義派閥を発表し、あらゆる合法的手段を用いて自治を目指すことを宣言。1935年に大インドネシア党を結成。さらに39年に8つの民族組織をまとめるインドネシア政治連盟のリーダーとなる。オランダとの敵対ではなく、民族自決と同時にオランダとの連帯を謳った。1941年に日本軍とのスパイ容疑で逮捕、持病が悪化し5日後に他界。死後評価が高まり、国民的英雄となった。

モハマド・フスニ・タムリン

 5,000ルピア―イダム・ハリド:牧師。政治家。1965年に発生したクーデター後においても政治家として活躍した。神学学校や寄宿学校で学ぶ。日本語を含め語学が堪能なことから第二次世界大戦中は通訳などの仕事を務めながら、イスラム系の教育大学で学ぶ。独立後、インドネシア人民連合に参加。その後人民代表評議会議長となり、第二次アリ・サストロアミジョジョ内閣で第二副首相。スカルノ大統領失脚後、人民福祉大臣などを務めた。
 10,000ルピア―フランス・カイシイエポ:政治家。オランダ領ニューギニアとインドネシアの再統一に尽力。オランダ領ニューギニアであったパプア州にある空港名にもなっている。
 20,000ルピア―サム・ラトゥランギ:政治家。教育者。ジャーナリスト。民族主義運動家。奨学金を得てジャカルタの医学校に入学するが工科系高校に進学、卒業後は鉄道建設の仕事に従事。オランダ人との格差を目の当たりにして、ヨーロッパ留学を考える。母親の他界による遺産を留学費用に当て、オランダの大学、スイスの大学で科学と数学の博士号を取得。この頃から独立組織運動に参画し、帰国後インドネシアの工科大学で教員として勤務後、保険会社を設立。事業の傍ら学習基金財団を設立したほか、農地を開放し、ミナハサでの強制労働を廃止するよう訴え実現。その後国民会議議員に任命され、第二次世界大戦後はスカルノ大統領からスラウェシ島知事に任命された。しかし戦後統治を行う連合軍部隊がオランダ軍中心であることに抵抗、地域の独自共和国を誕生させ、長として共和国の運営を図った。だが1946年にオランダ軍警察によりスタッフと家族とともに捕縛され、西ニューギニアに流刑となった。彼は流刑地でも地域政党を模索し活動した。その後国連の介入で交わされたオランダとインドネシア共和国との協定で解放されると政府の顧問に迎えられる。ただインドネシア東部を支配しておきたいオランダとインドネシア共和国の交渉がまとまらず、1948年にオランダは軍事侵攻、再びラトゥランギら政府関係者が捉えられ、流刑となる。その後一旦ジャカルタに戻され自宅軟禁となるも、健康を害し死去。死後「国民的英雄」の称号を贈られた。
 50,000ルピア―ジュアンダ・カルタウィジョヨ:首相。教師。エンジニア。バンドン工科大学を卒業後、教師、エンジニアとして働く。インドネシア共和国の独立宣言後結成されたインドネシア政府に加わり、交通大臣、大蔵大臣などを歴任し、のちに首相。領海政策に尽力。
 100,000ルピア―スカルノ:初代大統領。国父として敬愛されている。ジャワ島の都市スラバヤ出身。貴族出身の家庭に生まれ、地元でオランダ語の教育を受けたが、オランダによる過酷な植民地政策に対する反発を感じていたため、現在のバンドン大学卒業とともに、反植民地運動を開始、インドネシア国民党の設立に参加。第二次世界大戦後も独立を認めないオランダとの独立戦争を指導し、1950年にインドネシア共和国の単一国家化を達成した。非同盟諸国首脳会議を開催し第三世界の指導者として活躍。
独裁体制維持のためナサコム体制を敷くが、体制に反感を持つスハルトの軍事クーデターで失脚した。ちなみにタレントして活躍しているデヴィ夫人はスカルノの第3夫人/モハマッド・ハッタ:初代副大統領。初代大統領のスカルノとともに、独立運動を主導した。

【27】カンボジア(リエル)
 国王のみ。長い内戦下にあったため、内戦前と内戦後に製造された紙幣が使われている。ノロドム・シハヌーク元国王は内戦前の紙幣。シハモニ国王の紙幣は内戦後に印刷された。硬貨はつくられておらず、また50リエル、200リエルは、ほぼ流通していない。
 50リエル―アンコールワット
 100リエル―ノロドム・シハヌーク:
カンボジア国王。カンボジアの王家はノロドム王とシソワット王を祖とする2家に分かれていたが、1941年にカンボジアを含むフランス領インドシナ総督の裁定により、ノロドムの即位が決定。1945年に日本軍がインドシナに進出し、フランス軍を撤退させると、ノロドムがカンボジアの独立を宣言した。1955年に退位し、父のノロドム・スラマリットが即位する。その後政治団体「社会主義人民共同体」を結成し、総選挙で圧勝するとシハヌーク翼賛体制を固め、「王制社会主義」を推進。仏教の保護と非同盟主義を進めるが、国内では左派の徴用と弾圧を重ねたため、ポル・ポトやイエン・サリといった左派の指導者がゲリラ化し、やがて内戦を招くことになる。
 200リエル―ノロドム・シハモニ国王:ノロドム・シハヌーク元国王と6番目の后の間に生まれた息子。ポル・ポト政権下では父とともにフランスにわたり、プラハで習ったクラシックダンスなどを教えて暮らす。2004年父王の退位表明を受け、新たに制定された王室関連法によって指名を受け即位。
 500リエル/ 10,000リエル/ 15,000リエル/ 20,000リエル―シハモニ国王
 1,000リエル/ 2,000リエル/ 5,000リエル/ 50,000リエル―ノロドム・シハヌーク

 100,000リエル―ノロドム・シハヌーク/モニク王妃

【28】インド(ルピー)
 ガンジーのみで統一。インドでは、偽造防止と汚職防止を目的としてモディ政権が高額紙幣の流通禁止を打ち出している。2016年11月6日に1000ルピー紙幣と500ルピー紙幣の流通を4時間以内に禁止し、代わって新紙幣を順次流通させると、突如発表した。これらの紙幣の所有者は各銀行に預け入れることが推奨され、口座の有無にかかわらず預けることができる(新規口座開設)。新紙幣との交換は2016年12月24日まで。旧紙幣での預け入れの場合は2016年内まで。ただ経過措置として医療機関やガソリンスタンド、食料品店など生活に密着した場において旧紙幣も利用できるが、その後2000ルピー紙幣も2023年9月末をもって流通停止となった。この際、新紙幣にマハトマ・ガンジー以外の人物の肖像画を採用するという動きもあったようだが、結局ガンジーが採用された。
 1ルピー―アショーカの尖塔
 5ルピー―マハトマ・ガンジー:
インド独立の父。弁護士。イギリス植民地下のインドで「非暴力・不服従」を貫き、インドを独立に導いた。
 10ルピー/ 20ルピー/ 50ルピー/ 100ルピー/200ルピー/ 500ルピー/ 2,000ルピー ―マハトマ・ガンジー

■世界で初めてフライングドクターをシステム化した人物ーオーストラリア

【29】オーストラリア(オーストラリア・ドル)
 政治家から作家、社会活動家、歌手など幅広い。エリザベス女王を採用しているのは、英国連邦の顕示。
 5ドル―エリザベス2世
 10ドル―バンジョー・パターソン:
19世紀後半に活躍したオーストラリアを代表する詩人。作家。ジャーナリスト。代表作に「ワルツィング・マチルダ」などがある。5歳まで地方の田舎暮らしをしていて、初等教育は家庭教師で受けた。16歳で大学入学を許可され、卒業後の1886年に事務弁護士の資格を取得。その前からペンネームで詩人の活動を始める。作品はオーストラリアの自然や牧歌的に風景を表現しているものが多い。シドニーの「シドニー・モーニング・ヘラルド」などで従軍記者としてボーア戦争を取材。また愛国主義者的思想から論文を発表をしている/ダム・マリー・ギルモア:19世紀後半に活躍した作家。詩人。ジャーナリスト。公立学校で教師をしていたが、ウィリアム・レーンの空想的社会主義の理想に触発され、「ニュー・オーストラリア運動」に参加、パラグアイに渡るが、運動が分裂し帰国。新聞『オーストラリアン・ワーカー』に自ら掛け合って女性のコラムを担当。ここで女性の投票権、老齢年金および障害者年金、児童手当、貧困者の救済、先住民の正当な扱いなど社会問題に触れ、社会的弱者のための社会改革、福利厚生の確立を訴えるようになる。死後国葬となる。
 20ドル―マリー・ライビー:実業家。イギリス生まれ。生まれてすぐ両親が他界。士官学校に入学させられるも脱走。14歳の時に馬を盗んでオーストラリアに強制送致された。刑を終えると17歳で結婚し、夫と貨物運送業を始め拡大させるが夫が死去。7人の子の世話をしながら事業を成長させ、さらに農場経営、石炭や毛皮、皮革の貿易を展開、海外に事業を拡大したほか、ニューサウスウェール
ズ銀行も設立した/ジョン・フリン:医師。世界初の航空医療サービスを確立したフライング・ドクター。牧師になるつもりだったが、布教活動にあたるなか、広大な中西部地帯には医療が行き届いていない状況を知り、住民のために小病院やホステルを設立する一方、医学生の協力のもとカンタス航空の創業者に掛け合い、世界で初めてフライングドクター専用機を開発した。

ジョン・フリン

 50ドル―デイビッド・ウナイポン:発明家。作家。説教師。19世紀後半から20世紀前半にかけて活躍。発明家として反重力装置、マルチラジアルホイール、羊の毛刈りハンドピース、遠心モーターや機械式推進装置などを実現した。ヘリコプターの設計や偏光の研究、弾道学について研究を重ね、その研究領域の広さから「オーストラリアのレオナルド・ダ・ヴィンチ」と呼ばれた。アボリジニの伝説をまとめ、アボリジニ出身の作家として初めて英語で作品を発表した。先住民問題に深く関わり、自決権を主張、アボリジニ独自の領土を確保しようして逮捕されたこともある。ウナイポンの功績を称え、彼の名を冠した2つの文学賞が設立されている/エディス・ディルクセイ・カーワン:政治家。女性運動家。オーストラリア初の女性国会議員。西オーストラリア州パース出身。社会問題や法制度の不正義、特に女性と子供に関わる問題に関わるようになり、1894年に読書クラブから立ち上がった女性の社会問題、地域問題などを研究発信する女性専用クラブ「カラカッタ・クラブ」設立に協力、女性参政権運動を主導した。労働運動や教育にも関心を持ち学校の性教育を推進した。
 100ドル―ネリー・メルバ:オペラ歌手。ソプラノ歌手。19世紀後半から20世紀前に活躍した。メルボルンで声楽を学んだ後、結婚して国内で活躍していたが、その後離婚し渡欧。パリで声楽を学び直し、パリやブリュッセルで成功を収めた。やがてロンドンやニューヨークなどでも人気を博すようになる。第1次世界大戦がはじまるとオーストラリアで慈善活動を開始。その功績で大英勲章が与えられた/ジョン・モナシュ:オーストラリア帝国軍将軍。メルボルン大学で土木工学、法学、文学を修めた。一方で民兵の大学で軍事を学び、ノースメルボルン砲兵隊の中尉となる。暫くは土木技師と民兵を兼業していたが、第一世界大戦が始まるとフルタイムの陸軍将校となり、昇進を重ねながら最終的にオーストラリアの大師団を指揮し、ヨーロッパを中心に戦果をあげた。引退後はメルボルン大学の副学長を務めている。

ネリー・メルバ

■女性の参政権獲得に粘り強く交渉した女性ーニュージーランド

【30】ニュージーランド(ニュージーランド・ドル)
 政治家から作家、社会活動家、歌手など幅広く採用。大英連邦を成す国家の1つであることを示すエリザベス女王の肖像が採用されている紙幣もある。
 5ドル―エドモンド・ヒラリー:登山家。軍人。養蜂家。人類初のエベレスト登頂を実現。登頂後は南極点までトラクタで到達したほか、北極点にも到達。オークランド出身。16歳の家族旅行で北島にあるルアペフ山を訪れたことがきっかけで山に魅了される。本格的に開始をし20歳でオリヴィア(1933m)の登頂に成功。エンジニアを目指しオークランド大学で理学と数学を学ぶが、中退し養蜂業に従事。第二次世界大戦に空軍兵となる。戦後1948年にニュージーランド最高峰のクック山(3764m)に登頂。1953年にイギリスとニュージーランドの合同登山隊に選出され、先発隊のアタック失敗後、ヒラリーとネパール人のノルゲイに出動が命じられ、5月29日に登頂に成功した。引退後は養蜂業を続けた。

エドモンド・ヒラリー

 10ドル―ケイト・シェパード:編集者。社会活動家。主に女性参政権獲得のために活動。イギリス・リバプール出身。家族でニュージーランドに移住後、女性のキリスト教禁酒同盟(WCTU)を含むさまざまな宗教および社会組織の積極的なメンバーになったほか、ニュージーランド初の女性によって運営される新聞「The White Ribbon」の編集者となり、女性参政権獲得のために活動。1887年、参政権と立法のためのWCTUの国家監督に任命され、ニュージーランドでの女性参政権を推進するために活用した。請願や公開会議を組織化したり、報道機関に手紙を書いたり、政治家との交流を深めたり、さまざまなアプローチで粘り強く交渉した。女性が男性から法的および経済的独立を確立することに関心を持ち続け、比例代表制、拘束力のある国民投票、内閣の議会による内閣の直接選出制などの政治改革を促進した。

ケイト・シェパード

 20ドル―エリザベス2世:イギリスウィンザー朝第4代女王、イギリス連邦君主、およびイングランド国教会首長。
 50ドル―アーピラナ・ンガタ:弁護士。政治家。先住民族のマオリ族出身の政治家。ニュージーランドのカンタベリー大学を奨学金で卒業、政治学と法学を学ぶ。マオリ族として初の大学学位を得た。さ
らにオークランド大学で法学位を取得。1905年にニュージーランド自由党から総選挙に東部マオリ選挙区に出馬し初当選。以後11期国会議員として務める。途中、マオリ大臣、副首相を務めた。

アーピラナ・ンガタ

【31】トルコ(リラ)
 近代まで大帝国を築いてきたトルコだが、全紙幣には現代トルコの創設者であるムスタファ・ケマル・アタテュルクの肖像画が印刷されている。裏面に各分野を代表する偉人が採用されている。
 5リラ―ムスタファ・ケマル・アタテュルク:トルコ国父。初代大統領/アイドゥン・サユル:科学史学者。オスマン・トルコ帝国時代のイスタンブールで生まれ、高校時代は首都アンカラで過ごす。高校時代は建国の父であるアタテュルクと同期。高校卒業後ハーバード大学に国費留学し「イスラム世界の科学機関」という論文を発表し、博士号取得。科学史で博士号を取得した世界初の人物。帰国後はアンカラ大学の哲学科で教鞭を執る。1960年に世界の天文台の歴史について著した「一般天文台史におけるイスラム世界の天文台の位置」を発表し、また1973年にポーランド政府からニコラウス・コペルニクスに対する業績からコペルニクス勲章を授与されるなど天文台の歴史学に貢献した。

ムスタファ・ケマル・アタテュルク

 10リラ―ムスタファ・ケマル・アタテュルクチャヒト・アルフ:トルコを代表する数学者。分岐理論におけるハッセ・アルフ原理、アルフ半球、アルフ環、位相幾何学における結び目理論、手術理論などの研究で知られる。オスマン・トルコ帝国時代のテッサロニキで生まれ、フランス・パリの高等師範学校に国費留学、ドイツのゲッティング大学で博士号を取得した。トルコの科学全般に影響を与え、「トルコ科学技術研究会議科学賞」、フランスの教育省の「アカデミック・パルム勲章」などを授与されている。
 20リラ―ムスタファ・ケマル・アタテュルクケマレッディン・ベイ:オスマン・トルコ帝国時代の建築家。イスタンブール出身でイスタンブール工科大学、ドイツ・ベルリンのベルリン工科大学で建築を学び、トルコ国鉄本部や国鉄の主要駅、高校や大学、アパート、オフィスビル、ホテル、モスクなど、ドイツとオスマン建築を融合した作品を残した。代表作に「イスタンブール4番目のワクフ・ハン」、「タイヤレアパート」など。
 50リラ―ムスタファ・ケマル・アタテュルクファトマ・アリイェ:オスマン・トルコ帝国時代の女流作家。翻訳家。活動家。哲学や歴史などの著作物を残す一方、イスラム教と女性の権利に関する作品を著し、男性優位のイスラム教世界に疑念を呈して一夫多妻制に反対し、離婚の権利を養護した。
 100リラ―ムスタファ・ケマル・アタテュルクブフリザデ・ムスタファ・ウトリ:オスマン・トルコ帝国時代の民族音楽家。作家。詩人。書道家。トルコ古典音楽の創始者とされ、生涯で1000曲以上書いたとされる。トルコの多様な音楽に精通していた。
 200リラ―ユヌス・エムレ:13世紀後半から14世紀前半にかけて活躍したトルコの詩人。ペルシャ詩の影響を色濃く受け、神や人間への愛を詠った神秘主義な詩が多い。

【32】イギリス(ポンド)
 2022年のエリザベス2世の逝去に伴い、改刷が実行された。存命の人物が採用される紙幣は実は珍しい。
 5ポンド―チャールズ3世:イギリスウィンザー朝第5代国王。エリザベス2世の逝去によってイギリス連邦の君主となった。全名はチャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ。
 10ポンド/ 20ポンド/ 50ポンド―チャールズ3世

■普遍的科学システムを追究した万能学者ーブルガリア

【33】ブルガリア(レフ)
 なかなか馴染みのないブルガリア。大国に翻弄されてきた姿が読める。
 5レフ―イヴァン・ミレフ:画家。表象主義、アールヌーボー、表現主義を取り入れ、ブルガリア分離派を主導した。ブルガリア芸術の巨匠とされる。国立アカデミーを卒業後、舞台デザイナーとしてイヴァン・ヴァゾフ国立劇場でキャリアをスタートさせ、その後イラストレーター、画家として独立、社会性のある画を発表していったが、30歳で夭折した。
 10レフ―ペタル・ベロン:19世紀に活躍した教育者。医師。科学者。思想家。哲学者。ブルガリアで初めて百科事典を出版。「現代ブルガリアの父」とも呼ばれる。ドイツのミュンヘン大学で医学を学び、ブルガリアで9年間医師として活動。その後パリに移り科学者として研究を開始。マクロコスモスとミクロコスモスの起源、性質、運動の法則、発展に関するすべてを網羅する普遍的な科学システム「パピネステーメ」を追究した。9ヵ国語を操り、人体生理学、感染症、電気生理学、予防医学、スラブ哲学、道徳教育、大気学、気象学、地理学など森羅万象について研究を進めた。また医師時代や出版などで得た収益はブルガリア教育の発展のために寄付を続けた。1871年強盗によって殺された。

ペタル・ベロン

 20レフ―ステファン・スタンボロフ:19世紀の政治家。首相。革命家。詩人。ジャーナリスト。現代ブルガリアの創始者の一人とされ、「現代のビスマルク」とも呼ばれることもある。オスマン・トルコ帝国の支配時代に生まれ、ウクライナのオデッサの神学校で学ぶ。その後オスマン・トルコ帝国の支配に抵抗する「スタラ・ザゴラ蜂起」、「四月蜂起」に関わった。もともと父親がトルコ支配に対して抵抗した人物であり、スタンボロフの周りには革命家、抵抗者が多数いた。その後一旦ブルガリアで教師を務めた後、ブルガリア革命中央委員会に参画し主導者となる。ロシアがスラブ人救済を名目にオスマン・トルコ帝国と1877年に起こした戦争でブルガリアの独立が実現するとブルガリア議会の副議長、議長に就任。軍事クーデターに対する反ク―デターで摂政に就任し、不在となった君主に代わって大統領、政府の大臣役を務めた。その後君主が戴冠すると自らは首相となって外交、経済、政治全般に対する強化を図った。とく独立した外交政策の確立に注力した。暗殺者によって襲われ、両腕を切断されるなどの重症を負い数日後死亡した。

ステファン・スタンボロフ

【34】ハンガリー(フォリント)
 過去から現代に至るハンガリーの建国と発展に貢献した政治家や革命家、王、貴族などの肖像を採用。
 500フォリント―ラーコーツィ・フェレンツ2世:ハンガリーの貴族。反ハプスブルク独立戦争を指導したハンガリーの国民的英雄。トランシルヴァニア公国の君主。金羊毛騎士団の騎士。
 1,000フォリント―マーチャーシュ1世:15世紀末に登場し、ハンガリーに最盛期を築いたハンガリー国王。ボヘミア王でもあり、オーストリア大公国の支配権も獲得した。ルネサンス文化を推進した。
 2,000フォリント―ベトレン・ガーボル:反ハプスブルク家運動の指導者。30年戦争においてプロテスタント陣営を支援、トランシルヴァニア公国絶対君主となった。
 5,000フォリント―セーチェーニ・イシュトヴァーン:ハンガリーの近代化に尽力した19世紀前半の政治家。自由主義貴族。放蕩生活を送った時期もあったが、科学アカデミーの創設に貢献。改革のモデとしてイギリスを想定するが、急進派とは折り合いが悪かった。
 10,000フォリント―イシュトヴァーン1世:10世紀から11世紀にかけて在位したハンガリー王国の初代国王。ハンガリーのキリスト教化に貢献し、カトリック教会では聖人として列聖されている。
 20,000フォリント―デアーク・フェレンツ:政治家。19世紀の法務大臣。国の賢人と称され、ハンガリー自由主婦運動の最も偉大な人物。オーストリアとの軍事・外構同盟である二重帝国を実現した1867年の「オーストリア=ハンガリー妥協」を主導、ハンガリーの主権をオーストリアの支配から守った。

■万能で多彩な人物が続々ーウクライナ

【35】ウクライナ(フリヴニャ)
 現在ロシアと戦争中のウクライナ。紙幣の人物からはロシアやヨーロッパとの関係が見て取れる。
 20フリヴニャ―イヴァン・フランコ:19世紀後半から20世紀にかけて活躍した作家。思想家。評論家。言語学者。ウクライナの国民的作家でウクライナ民族解放運動やウクライナ文化振興運動の第一人者。中世ウクライナの思想家イヴァン・ヴィーシェンシクィーについて博士論文を書き、オーストリアのウィーン大学で博士号を取得した。ウクライナ語のほか、古代ギリシア語、ラテン語、フランス語、ドイツ語、英語、ロシア語、チェコ語、セルビア語、クロアチア語など多言語を操り、多くの文学作品の翻訳を手掛け、言語学に精通していた。ウクライナ語では文語体を重視し、ロシア語に近づけようとする親ロシア派の知識人と対立した。また哲学、歴史、人類学、経済学、文学論でも旺盛な活動をみせた。

イヴァン・フランコ

 50フリヴニャ―ミハイロ・フルシェフスキー:歴史学者。政治家。ジャーナリスト。ウクライナ国民民衆主義党を結成、オーストリア、ロシアの影響下にありながらウクライナ人による政治・文化活動に関わった。1917年から19年にかけてウクライナ中央議会の議長を務めた。事実上のウクライナ人民共和国の元首。
 100フリヴニャ―タラス・シェフチェンコ:19世紀に活躍した画家。詩人。ウクライナ語によるウクライナ文学の祖とされる。農奴制に反対し秘密結社「聖キリルと聖メソジウス団」に関わりながら、農奴解放に力を注いだ。幼くして孤児となったシェフチェンコは、教会に住み込みとして働き、スラブ語の読本や祈祷書などに親しみ、その後は富豪の小使いとなり、家庭画家としての教育を受ける。その後ロシア帝国美術大学に進み、物語性のある作品を残すようになる。詩人としても知られ、ウクライナ語の詩集「ゴブザール」はロシアの知識人からは“田舎者の詩”と僭称されたが、ウクライナ文化人からは絶賛された。
 200フリヴニャ―レーシャ・ウクライーンカ:19世紀後半から20世紀前半に活躍した詩人。画家。翻訳者。文芸評論家。ウクライナ語の他、ロシア語、ドイツ語、フランス語、ギリシア語、ラテン語、イタリア語、英語、ベラルーシ語、ポーランド語をなど多言語を操り、ハインリッヒ・ハイネやビクトル・ユーゴー、ジョージ・ゴードン・バイロン、ホメロスなどの詩を訳し、1902年にマルクス・エンゲルス「共産党宣言」をウクライナ語に訳した。女性解放運動、ウクライナ民族解放運動に深く関わった。

レーシャ・ウクライーンカ

 500フリヴニャ―フルィホーリイ・スコヴォロダ:哲学者。詩人。ロシア帝国時代で初の哲学者で、「ウクライナのソクラテス」と称される。ソクラテスの自覚論に基づいて、すべてのものは可視天性と不可視天性という2つの天性を有し、人間は自らの不可視天性、自らの本質を知れば幸せになれると唱えた。また人としてものを理解するには「宇宙」「聖書」「人間」の、3つの世界を知らなければならないと説いた。
 1,000フリヴニャ―ウラジーミル・ヴェルナツキー:博物学者。化学者。鉱物学者。サンクトペテルブルク大学を出た後、ドイツで鉱物学者として結晶の最新研究を進める。鉱物研究の一方でノウアスフィアという生物圏(バイオスフィア)を拡張した概念「理知の球」を提唱。学問として地球化学生物学、地球化学、放射年代測定などの新分野を開拓した。ウクライナ科学アカデミーの創設者。

ウラジーミル・ヴェルナツキー

【36】ケニア(ケニア・シリング)
 建国者の肖像オンリー。
 50シリング―ジョモ・ケニヤッタ:ケニア初代大統領。1923年頃から飲食店経営の傍ら、政治活動に関心をもちキクユ中央連盟に参加。その後ロンドン大学で聴講生、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで人類学の研究生となり、1938年に自身のキクユ族の伝統文化についての著作を発表する。その後、大学の教員やイギリス軍の顧問を務め、1946年に帰国。1952年に「マウマウ団の乱」に関わったとされ逮捕され、執行猶予を受けるが、1959年まで刑務所で過ごす。61年ケニア・アフリカ人民族同盟総裁、63年植民地政府首相となり、同年ケニアが独立し、初代首相となり大統領制に移行するとそのまま初代大統領に就任した。1974年に終身大統領となった。

ジョモ・ケニヤッタ

 100シリング/ 200シリング/ 500シリング/ 1,000シリング―ジョモ・ケニヤッタ

【37】ナイジェリア(ナイラ)
 人口2億人。アフリカ最大の人口を持つナイジェリア。経済発展の期待がかかるが、独立までも独立後もなかなか政治の安定が難しいことが読み取れる。
 5ナイラ―アブバカル・タファワ・バレワ:政治家。初代および唯一の首相。ナイジェリア北部で数少ない高等教育を受けた指導者として、北部を代表する政治家とされる。アフリカ統一機構(OAU)の設立に尽力した。ロンドン大学に留学し、帰国後政治活動に関わり、北部人民会議という政党を結党。1952年に労働大臣として入閣、1957年ナイジェリア・カメルーン国民会議と連立内閣で首相となるが、1966年のクーデターで殺害される。

アブバカル・タファワ・バレワ

 10ナイラ―アルヴァン・アジンナ・イコク:教育家。政治家。社会運動家。教会で教職に就いた後、教員養成学校の講師となり、その後ロンドン大学の外部プログラムで哲学の学位を得る。中等学校を自ら設立するほか、初等教育の無償化、教師組合の設立などに貢献。教育省大臣、西アフリカ教育評議会委員などを務めた。自身の名をつけた大学も設立されている。
 20ナイラ―ムルタラ・モハンマド:軍人。第4代大統領。1975年にクーデターで前の軍事政権を打倒し、当時ソ連寄りの政権を樹立させた。急激な改革で1万人以上の公務員を解雇した。1976年に暗殺される。
 200ナイラ―アフマドゥ・ベロ:政治家。北部ナイジェリア唯一の首相。イギリス植民地時代、イスラム王国のソコト・スルタン王国の一員として自宅でイスラム教育を受け育つ。コーランやイスラム法学を学んだ後、職業訓練大学に通い、英語教員となる。1934年に県長に任命された後、北部評議会のメンバーに。奨学金を得てイギリスに留学し地方行政を学んだ後はナイジェリアで政治家として頭角を現した。ナイジェリア北部領の公共事業大臣、地方自治大臣、コミュニティ開発大臣を務め、1959年に行われた独立選挙では北部人民会議(NPC)党首として過半数議席を獲得、ナイジェリア独立を後押しした。1961年の独立連邦政府結成にあたっては、北部ナイジェリア首相にとどまり、連邦政府首相の座をパレワに譲った。1966年、ナイジェリア史上初のクーデターで暗殺される。
 500ナイラ―ンナムディ・アジキウェ:政治家。ナイジェリア初代大統領。ラゴスの高校を卒業後アメリカの大学に進学、卒業後ガーナの「アフリカン・モーング・ポスト」の編集長に。筆禍で半年入獄し、ナイジェリアに帰国。「ウェスト・アフリカン・パイロット」を創刊し、民族運動を推進した。1944年にナイジェリア・カメルーン国民会議に入党すると46年に党首に。独立後の1960年に初代大統領に就任。その後ラゴス大学総長を務め、ナイジェリア人民党を結党し、大統領選に挑むも叶わなかった。
 1,000ナイラ―アリユ・マイ・ボルヌ:経済学者。ナイジェリアの先住民初の中央銀行総裁。地元の大学を卒業後、英語教師としてキャリアをスタート。奨学金を得てイギリスのブリストル大学で経済学を学ぶ。帰国後財務貿易省に入省。途中、中央銀行に出向。1963年から総裁/クレメント・アイソン:政治家。ナイジェリア中央銀行総裁とクロスリバー州知事を歴任した。地元カレッジを卒業後渡米。ハーバード大学の文学部、経済学部で学び、帰国後中央銀行に次官として入行。その後国際通貨基金に出向した。

【38】コートジボワール/ブルキナファソ/マリ/セネガル/トーゴ/ベナン/ギニアビサウ/ニジェール(西アフリカCFAフラン)
 アフリカの旧フランス領では「西アフリカCFAフラン」と「中央アフリカCFAフラン」が共通通貨として使用されている。ちなみに前者の図柄は次の通り。
 500フラン―情報通信/カバ
 1,000フラン―教育と医療/ラクダ
 2,000フラン―交通/ハタ
 5,000フラン―農業/レイヨウ
 10,000フラン―現代通信技術/ハシブトエボシドリ

【39】中央アフリカ/コンゴ/カメルーン/ガボン/赤道ギニア/チャド(中央アフリカCFAフラン)
 500フラン―中部アフリカ諸国銀行/近代農業
 1,000フラン―中部アフリカ諸国銀行/健康と医療
 2,000フラン―中部アフリカ諸国銀行/環境保護(植物相)
 5,000フラン―中部アフリカ諸国銀行/環境保護(動物相)
 10,000フラン―中部アフリカ諸国銀行/学校教育


 いかがだっただろうか。馴染みのない人ばかりで興醒めした人も多いかもしれないが、気になった時の辞典代わりに読んでもらえたら幸いである。そして街で外国人を見かけたら、こう話しかけてみてはいかがだろう。「あなたの国のお札に描かれている人はどんな人?」と。

参考
【参考サイト】●経済について楽しく学べるman@bow ●ナショナルジオグラフィック ●ホームメイト ●文鉄・お金とコインの資料館 ●一般社団法人ラテンアメリカ協会 ● NIKKEI STYLE ● JAL(日本航空サイト)●エイブルネットワーク プノンペン店 ●ナムウィキ ●外務省 ●アジア経済研究所 ● JETRO ● WEEKLYSingaLife ほか

POINT
■中南米は画家、詩人、作家、芸術家の宝庫
■政治家としてだけでなく、多彩な才能を持つ人物が多い
■元首の逝去に伴い紙幣の「顔」が変わるのは世界的には少数派
■東南アジアは、建国の父の肖像で統一されることが多い
■フランス系アフリカで進む紙幣のユーロ化
■中南米、東南アジア、アフリカの紙幣に独立を勝ち取った誇りが記されている
■インフレ率が高い国は紙幣の種類が多い
■紙幣の顔は世界の人々をつなぐ「顔」でもある

ビジネスシンカーとは:日常生活の中で、ふと入ってきて耳や頭から離れなくなった言葉や現象、ずっと抱いてきた疑問などについて、50種以上のメディアに関わってきたライターが、多角的視点で解き明かすビジネスコラム

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