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知っていれば、ちょっとドヤれる?!社会人のための西洋絵画史のキホン 2

 西洋絵画はキリスト教のプロパガンダ装置として発展した。それゆえ宗教と国家の関係を把握していないと、美しさはもとより、描かれた意図、革新性はつかめない。日本人からすれば考えにくい構図であったり、ありえないモチーフや表現法も、その背景や絵画の歴史を紐解くと見えてくることがある。
 中世まではイタリアで興ったルネサンスが美術のみならず芸術文化を引き上げたが、近代から現代にかけては印象派が革命を起こした。それは画法だけでなく、権威と自由、権力と反権力、守旧と革新、モダニズムと古典、貴族と民衆といった代理的な価値戦争でもあった。そして20世紀に入ると2度の世界大戦から、より自由で内面を表現する画家が生まれ、そのテーマや技法も多様化していった。

■古代遺跡ポンペイの発見でヨーロッパが古典ブームに。新古典主義が興隆

 1789 年にフランス革命が起こると、貴族を基盤に栄えた「ロココ文化」は一気に終息し、代わって「新古典主義」が台頭する。きっかけとなったのは1738 年に始まったイタリアの古代遺跡ポンペイの発掘である。
 ポンペイはイタリアのナポリ近郊にあった古代ローマ時代の遺跡で、西暦79 年のヴェスヴィオ火山の大噴火によって一夜にして火砕流で埋まってしまった古代都市。そのため埋もれた当時の人々の遺体もそのまま残るなど、当時の街がほぼ損傷されることなく残った。
 西洋絵画はキリスト教のプロパガンダとともに発展したが、初期キリスト教美術は偶像崇拝を禁止したこともあり、その表現は記号的なものにとどまっていた。またその記号的表現は「中世以前の画家の技術は稚拙で未発達」という印象を与えてきた。
 だがポンペイから発見された壁画の数々は色鮮やかで立体的、かつ遠近法を使用したレベルの高い写実画であった。この発見にドイツの考古学者ヴィンケルマンは、古代美術を称賛する理論書『ギリシャ芸術模倣論』を発行。するとヨーロッパ各地の芸術家の間から「古典に戻れ」という声が上がるようになった。各国のアカデミーでは古代ギリシャ芸術と、それを復活させたルネサンス期の古典主義芸術が注目を集めることになる。なかでもルネサンス三大巨匠の1人であるラファエロが理想とされた。

■ナポレオンのイメージアップに貢献した新古典主義画家

 新古典主義は古典に倣った整然とした構図と、高度な素描技術に裏打ちされた徹底的な写実主義が特徴で、フランスではナポレオンの肖像画で知られるダヴィッドが先導し、その後継者であるアングルが完成させた。
 新古典主義というとどこか保守的なイメージがあるが、たとえばダヴィッドはフランス革命においては、革命急進派であるジャコバン派の画家として積極的に革命派市民の絵を描いている。

ダヴィッド《マラーの死》

 フランスでは1789年に第一身分である聖職者、第二身分である貴族、第三身分である商人や農民などの平民の3つの身分から成る全国三部会がおよそ150年ぶりに開かれたが、1人1票とするか、身分にって比率を変えるのかという票の扱いについて議会が紛糾すると、国王は議会を閉鎖した。怒った平民である第三身分の議員たちは、ジュ・ド・ポーム(テニスに似た競技)の競技場に集まり、憲法制定まで解散しないことを誓った(球技場の誓い)。ダヴィッドはこの様子を絵にしている。そのほか反革命派に暗殺されたジャーナリストの「マラー」、共和国軍の少年兵「バラ」の劇的な死の様子などを描いて、革命派である商人や職人、農民を支援した。ダヴィッドは画家としてだけでなく、その後成立した共和国政府の役職も歴任したが、共和国政府の恐怖政治を断行したジャコバン派のロベスピエールを支えた人物として、ロベスピエール処刑のタイミングで投獄された。
 ダヴィッドはその後恩赦を受けたが、政治とは距離を置き、後輩を育てることに専念した。しかし弟子の一人でクーデターによって政権を握ったナポレオンの従軍画家となったグロを通じてナポレオンと知り合い、以後ナポレオンのプロパガンダに協力するようになる。アルプス越えの様子を描いた有名な《サン・ベルナール峠を越えるボナパルト》では、実際に乗っていたラバを白馬に変え、着用していないマントを着せて、英雄としてのナポレオンを演出した。ちなみに絵画の歴史のなかで公式に従軍画家という役割を与えたのもナポレオンとされる。

ダヴィッド《サン・ベルナール峠を越えるボナパルト》

 ナポレオンはまたグロに武勇伝だけでなく《ヤッファのペスト患者を見舞うナポレオン》など、戦場で敵に寛大に接する姿を描かせた。同じくダヴィッドの弟子で、後にフランス画壇の頂点を極めるアングルには、神のような荘厳さを演出した《玉座のナポレオン》を描かせている。

アングル《玉座のナポレオン》

 ナポレオンの戦争は、もともとフランス革命の影響を恐れたイギリスをはじめとした絶対王政国の「対フランス同盟」に対抗するために始めた防衛戦争だった。しかし勝利を重ねるうちにナポレオンはヨーロッパ大陸支配を目論むようになる。1808年にはスペインの支配を企て進軍するものの、農民を中心とした市民の反乱にあう。ナポレオン軍は反乱者を処刑した。スペインの宮廷画家だったゴヤはこの時、抵抗して射殺される市民の姿を《マドリード、1808年5月3日》として描き、ジャーナリズムとしての絵画を打ち出した。
 ナポレオンはやがて「ワーテルローの戦い」で敗北すると、失脚。ナポレオンの失脚に伴い首席画家だったダヴィッドはブリュッセルに亡命し、その地で一生を終えた。またアングルの生活もどん底に落ち、一度フランスを離れている。

■ナショナリズムの高まりと社会運動の勃興、ロマン主義の台頭

 ナポレオンの失脚に伴い、フランスでの新古典主義は勢いを失っていく。代わって台頭したのが「ロマン主義」である。形式や伝統美を重んじる古典主義に対して、個人の個性や心情を重視する考え方である。ロマン主義は革命、独立を図る人々の心も捉えていった。ナポレオンの遠征はヨーロッパ各国のナショナリズムを刺激し、各国で反乱や独立運動が激化した。ドイツでは、ナショナリズムの高揚ともにドイツ・ロマン主義が広がり、フリードリヒがドイツ特有の険しい風景をドラマチックに描いた。彼の《氷海(希望号の難破)》は、風と巨大な波に翻弄されるありがちな構図の難破船ではなく、巨大な波の代わりに巨大で峻険な氷に閉じ込められた冬のバルト海の難破船を描いている。

フリードリヒ《氷海(希望号の難破)》

 ナショナリズムの勃興は、新たな階級意識を呼び起こした。フランス革命期に生まれたサン=シモンやフーリエ、プルードンなどの社会主義思想は、虐げられてきた労働者や農民、市民の意識を変え、社会運動に駆り立て、紛争や衝突を引き起こした。こうした社会情勢の変化に画家や作家も反応していった。またダヴィッドのように自ら革命の闘士として政治家として活動する者も少なくなかった。画家は形式にとらわれることなく、そこにある事実、描きたい対象を描き始めた。

■ロマン主義のきっかけをつくったジェリコー、サロンに事件を持ち込む

 その代表が1816年に起きた海難事故を描いたフランスのジェリコーの《メデューズ号の筏》である。147名の乗組員を乗せたフランス海軍の『メデューズ号』がアフリカのモーリタニア沖で難破、乗組員たちが急ごしらえの筏で脱出したが13日間漂流し、残った生存者はわずか15人だった。15人は飢えや幻覚、狂気に苦しめられただけでなく、殺人や人肉食などを行い、生き延びた。

ジェリコー《メデューズ号の筏》

 「メデューズ号の難破」は、当時最大級の犠牲者を出した国際的な事故であっただけでなく、事件だった。というのもこの艦長はナポレオン失脚後、政権についたルイ18世が政治的な理由で任命した亡命貴族であり、およそ艦長の能力がない人物だったからだ。
 ジェリコーはフランス中の話題をさらったこの悲劇を、約5m×7mサイズの実物大で描き、1819年のサロン(官展)に持ち込んだ。制作にあたっては生き残った人から話を聞き、アトリエに実際に筏を組んで構図を考え、また実際の死体をアトリエに集めたり、病院の死体安置所に出向いてその腐ちる様や皮膚の色や状態をつぶさに観察しながら、リアルで劇的な画面に仕上げた。当然官展では激しい議論を巻き起こすことになる。新古典主義者からは「積み重なった死体の山」と嫌悪され、「理想の美」からかけ離れていると批難された。
 しかしこの絵に感銘したのが後輩のドラクロワであった。代表作となったフランスの7月革命を描いた《民衆を導く自由の女神》における旗を頂点とした構図は、《メデューズ号の筏》のマストを頂点とした三角形を下敷きにしている。

ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》

 ドラクロワは、たちまち激動するフランス社会におけるロマン派の代表画家となった。この活躍を新古典主義の代表でフランス絵画の重鎮であるアングルは露骨に嫌い、ドラクロワのアカデミー入会を拒み続けた。その対立は革命と反革命の構図にも重なり、革命と反動が繰り返されたフランスの画家の政治的な立場を象徴した。
 ただアングル自身も新しい画風、革新を求めていた。そこで発表したのが《グランド・オダリスク》である。整然とした構図と対象物の正確さ、そして肌の滑らかさと美しさを描かせたら当代随一と言われるアングルの渾身作だったが、背中が異様に長いと酷評された。ロマン主義の哲学に則り、自分の個性や心情を重視した作品を描き、新古典主義の革新を図ろうとしたが、いかんせんその革新性が中途半端過ぎた。
 ロマン主義の画家はフランス以外にも現れた。スペインではゴヤがロマン主義の作品を残した。ゴヤは宮廷画家としてカルロス3世とその息子の4世に仕え、スペインロココ時代の最大の画家として称賛されたが、ナポレオンのフランス軍の侵攻に対する市民の反乱を描くと、ロマン主義の画家と評されるようになった。

■産業革命とピクチャレスクが広げたイギリスの風景画

 イギリスではスイス出身のフュースリーや銅版画家で挿絵画家のブレイク、ターナーがロマン主義画家として活躍した。とりわけターナーは画風も自在で、絵画後進国だったイギリスを一気に最前線に引き上げた。「絵画界のビートルズ」的存在である。
 当時イギリスではありのままの自然美を伝える「ピクチャレスク」が議論を呼ぶようになっていった。従来の美の文法に則った美ではなく、崖や廃墟など、それ自体を美しいとは感じにくいものでも郷愁や懐かしさ、物語性などを取り込んで絵としての美をいかに表現するかを問う考え方である。
 ピクチャレスクがイギリスで取り上げられるようになった背景には産業革命があった。急速な近代化は画家を刺激し、新たなモチーフとなったが、一方で都市環境の悪化など、新たな社会問題を引き起こす。そのため自然の素晴らしさ、自国の歴史に注目が集まるようになったのだ(自然主義)。
 イギリスは、オランダで発達した写実的風景画を取り入れ、これを独自に進化させた。従来の風景画はスケッチした絵を室内で理想化しながら完成させていたが、屋外で実際に観察しながら描くものとなった。そのため絵を手早く仕上げるために水彩を使った「地誌的水彩画」が発達した。ターナーもこの地誌的水彩画からキャリアをスタートさせている。
 イギリスは長らく絵画の後進国とされてきたが、理由の1つには油絵より水彩画が好まれたことがある。またイギリスで風景画が広まった背景には、郊外に鉄道網が広がったこともある。18 世紀後半にはイギリスでピクチャレスクツアーがブームとなったが、鉄道が延びると人々はこぞって地方に出かけるようになった。
 イギリスの風景画を飛躍的に発展させたのがゲインズバラで、領主とその風景を描くスタイルを確立した。またイギリスの代表的風景画家、コンスタブルは、故郷の穀倉地帯やロンドンの風景の自然をありのままに描いた。

ゲインズバラ《アンドリューズ夫妻像》

 イギリスの自然主義はヨーロッパ全体に広がっていった。フランスではコローやテオドール・ルソーなどが、パリ郊外の「バルビゾン村」に移り住み、森や湖、田園風景を描く「バルビゾン派」を形成した。自然を写し取るスタイルは、やがて印象派のモネなどのように、光の移ろいを写し取っていく「外光派」と呼ばれる画派につながっていくが、その外光派の先駆者となったのもターナーであった。

ターナー《解体されるために最後の停泊地に曳かれていく戦艦テメレール号》

 ターナーは自然風景画だけでなく、産業革命で刻々と変化していく社会のさまも描いた。1839年にロイヤル・アカデミーに出品した《解体されるために最後の停泊地に曳かれていく戦艦テメレール号》は、ターナーの代表作となっただけでなく、今なおイギリスで人気の作品として知られる。
 戦艦テメレールは「トラファルガーの海戦」でフランス・スペインの連合艦隊を打ち破った母国の英雄船で、その船がわずか数分の1の大きさの蒸気船に曳かれていくという世代交代の哀愁を、沈みゆく夕日とともに描いた傑作とされる。
 また《雨、蒸気、速度―グレート・ウェスタン鉄道》は、当時誕生したばかりの蒸気機関車の想像を超えるスピードに素直に感動したターナーが、イギリス特有の雨や靄を吹き飛ばしながら疾走するさまを描いた作品である。ターナーは自然主義、ロマン主義、写実主義といった古典的な絵画のルールから離れ、他の画家が採り上げることがなかった蒸気機関車などの近代化の様子を積極的に描いた。
 また晩年には「カラー・ビギニング」と呼ばれる抽象化された風景画を描き、のちの印象派に影響を与えた。1870 〜71 年に起きた普仏戦争では、後に印象派を牽引することになるピサロやモネが戦争を避けてイギリスに渡ったが、その際ターナーの絵を観て感銘を受けている。

■フーリエ社会主義の申し子クールベ、アカデミーを斬る

 新古典主義の衰退は、フランスにおいてはアカデミズムをはじめとする権威の衰退ともとらえられるようになった。従来のアカデミズムに公然と反旗を翻し、対象を誇張せず見たまま描くという写実主義を標榜、徹底したのがクールベである。クールベは《水浴の女たち》を描いて官展に挑戦するが、描かれた女性の裸体には脂肪がつき皮膚には皺が入っており、当時の理想美からは程遠い作品だった。入選したものの当然のことながらサロンの不興を買った。この絵を見たナポレオン3世は「なんて醜いのだ」と持っていた馬のムチで画面を叩き酷評した。
 クールベは社会主義者でもあった。フーリエ思想に傾倒し、同郷の社会主義者のプルードンと親交があった。1850年に描いた《石割》は、それまで対象とされなかった名も無い石割人夫の労働を描いた初の「社会主義絵画」で、プルードンから絶賛された。クールベは1849年に《オルナンの食休み》をサロンに出品すると、ドラクロワやアングルに評価され、政府の買い上げとなる。画家にとって最高の栄誉となった。パリ大学で法律を学ぶ俊英でありながら、画家を目指してルーブル美術館で模写をしながら腕を磨いてきたクールベの1つの頂点であった。
 そして1851年に《オルナンの埋葬に関する歴史画(オルナンの埋葬)》という縦3m横7mの大作を描く。だがこれは官展で酷評された。「歴史画」というタイトルが問題だった。当時歴史画は古代の神々、王や皇帝、殉教者、歴史的な偉人などを描くものであって、片田舎の名も知れぬ人々を対象とするものではなかったからである。

クールベ《オルナンの埋葬》

 クールベは晩年、《私のアトリエの内部、わが7年間の芸術的な生涯を要約する現実的寓意(画家のアトリエ)》という大作も描く。そこに描かれている人々は、右側には自身と交流のある社会主義者たち、左側には封建的体制のなかで虐げられている市民、労働者を描いている。タイトルに寓意とつけているのは、リアリズムを使った歴史画であるという意図があった。クールベはこの作品と《オルナンの埋葬》を第2回のパリ万博に出展しようとしたが、政府から拒否される。怒った彼は、万博会場の向かいに小屋を建てて《画家のアトリエ》、《オルナンの埋葬》などいくつかの作品を展示する自分の個展を開催する。
 これは画家が開いた世界初の個展とされた。またクールベはこの個展の目録に「レアリスム宣言」と銘打った解説をしているが、これも画家が自分のスタイル・主義を明確に「宣言」という形で表した初のケースであった。
 クールベは政治家でもあった。1871 年の世界初の労働者自治政府である「パリ・コミューン」のメンバーになっていたが、ナポレオンを嫌っていたクールベは、ナポレオンが戦争で敵から鹵獲(ろかく)した戦車などでつくったヴァンドーム広場の記念柱の引き倒しを主導したことで投獄されることになる。出所後クールベの人気は沸騰し、注文が殺到するが、記念柱引き倒しに関して国家賠償が求められるとスイスに亡命し、そこで生涯を終えている。

■ミレーは素朴な農民の労働風景で社会の格差を描いた

 フランス革命以降、度重なる革命に明け暮れているフランスでは、画家には何らかのイデオロギーを表象することが求められた。画家はこの時代、目まぐるしく毀誉褒貶の渦に巻き込まれ、時に投獄され、命の危険さえあった。自由に情感や意図を込めることができた時代となったが、うまく立ち回る必要もあったのだ。
 《落穂拾い》や《晩鐘》など農民の慎ましい生活の様子を描いたバルビゾン派の代表とされるミレーは、もともと古典的な歴史画を残すことが目標だった。だがパリでコレラが流行したことやミレーが支持する左派議員がナポレオンから弾圧されたことから、バルビゾン村に移住した。そこで農民の生活を描いていたが、農民・労働者らが中心となって蜂起した2月革命後、《箕を振るう人》を官展に出品すると、共和政府はこれを買い上げた。理由は農民が纏っていた服が、赤、白、青のフランス国旗を連想させるものだったからと言われている。政府は当時の国家を支えていたのが圧倒的多数の農民や労働者であることを理解しており、再び反乱が起きて混乱をきたすことを避けたためとみられている。以後、ミレーは歴史画家ではなく、農民画家として名を馳せていくことになる。

ミレー《箕を振るう人》

 ミレーが描いた農民は素朴で慎ましい姿だが、実は資本家に搾取され虐げられる姿を描いたものが多い。《落穂拾い》は、夫を失った小作農の妻が、収穫後の落ち穂を大地主の監視のもと、拾わせてもらっている様子を描いたものである。キリスト教では、「畑から穀物を刈り取るときはその畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい」という教えがあり、落ち穂拾いはヨーロッパの農地で行われている季節風景であり、絵画の定番モチーフでもあった。しかし19 世紀のフランスは近代化によって大地主と小作人の関係が生まれ、農村に格差が広がっていった。ミレーは巧みにその格差社会を捉えたのだ。

■市民革命でできたフランスでは、戦争への積極的参加が求められた

 フランスで起こった革命は、ヨーロッパ中に凄まじい影響を与えた。各地のナショナリズムを高揚させ、国民国家の基本制度を固め、市民の徴兵制による軍隊制度を築いた。ナショナリズムによって整備された軍隊は市民のものであり、一度戦争となれば市民たるもの戦場に出向くのが当たり前の空気があった。
 育児をまともにしない母親に育てられ、若くしてアルコール依存症となった画家のユトリロは、第一次世界大戦時代に近所の婦人に「いい年をした若い者が軍隊にも入らずにぶらぶらしているんじゃない」と咎められ銃で撃たれている。
 画家にとっても、戦争に参加するか絵を描き続けるかは大きな問題となった。
 どの世界でも若くして成功者になることは難しい。今では何十億、何百億円で取引される印象派の画家の作品も、印象派の立ち上げ時は当然売れず、厳しい時代を送っている。
 印象派の代表であるモネやルノワールなどの貧乏時代を支えたのが、同じ印象派仲間のカイユボットとバジールだった。とくに裕福な家庭に育ち、医学を学ぶことを条件に画家を目指したバジールは、モネやルノワールなどの作品を自ら買い上げ、その画業を支えていたが、普仏戦争が始まると自ら志願して戦場に向かい、28歳の若さで散っている。またクールベも普仏戦争では国防政府軍の兵として参加しているほか、ブルジョア出身で印象派を先導したマネも普仏戦争に自ら志願して出兵している。

■生粋のパリジャンのマネ、エスプリを効かせてサロン(官展)に反抗

 守旧派と革命派の関係は、政治体制のみならずアカデミズムなどの文化的権威にも及んだ。フランス画壇において守旧派と革命派の構図が最も際立ったのが、印象派の成立であった。旧アカデミズムに最も噛みついたのはクールベだったが、印象派の契機をつくったマネも旧来の画壇に抵抗した。
 マネはクールベ同様、新しい画風、テーマで画壇に挑み、官展への入選を狙っていたものの理解されず落選が続いたが、当時パリで流行っていたスペインブームを受け、《スペインの歌手》、両親を描いた《オーギュスト・マネ夫妻の肖像》を出品し、入選を果たす。
 当時パリは、イギリスの産業革命の影響を受けて産業革命が進行し、またナポレオン3世の政策のもと都市の改造が進んだ。貧民街が一掃され、モダンな近代都市へと変貌していった。パリを代表する建造物―凱旋門やオペラ座―が作られたのもこの時代である。また18世紀、ルイ15世の公妾だったポンパドール夫人が設置したサロン(貴族が客間を開放し、同好の人々を集めて文学や思想、学問など語り合う場・風習)やイタリアから導入された「カフェ」も広がった。パリのサロンやカフェでは画家や彫刻家、音楽家、作家、詩人、批評家、社会思想家、粋人などが、連日連夜集い、芸術論や社会思想論を論じあった。
 市民の娯楽も格段に増えた。19 世紀に入るとパリではオペラや劇、サーカス、公園での音楽会、鉄道網が発達したため、ブルジョアの間では週末に郊外のリゾートで過ごす習慣も根付いた。パリ中心部を流れるセーヌ川では舟遊びや水浴で過ごす姿が当たり前となり、巨大な中洲のグランド・ジャット島では週末ともなれば着飾った男女が集まり、思い思いの時間を過ごした。
 一方でこの時代のブルジョアの間では、とくに男性には抑制的で紳士的な振る舞いが求められた。マネはその代表だった。同時代の芸術家仲間の批評は、立ち居振る舞いが常に紳士的で、パリの紳士にふさわしく会話には皮肉やエスプリが効いていたという。
 代表的エピソードがある。マネは束になったアスパラガスを描いたことがあるが、その作品を観た紳士が「買う」と言ったので、「800フラン」だと告げると、紳士は1000フランを差し出し、「釣りは要らない」と去っていった。マネはその後1本だけのアスパラガスを描き、手紙を添えて紳士に送った。手紙には「先日お買い上げ頂いたアスパラガスの束から一本抜け落ちておりました」と書かれていた。

マネ《一束のアスパラガス》
マネ《アスパラガス》

 マネのエスプリは、さまざまな作品で表現されたが、その代表が1863年に描いた《草上の昼食》と1865年の《オランピア》であった。《草上の昼食》はサロン(官展)を通らず、代わりに落選展で展示された。この落選展はこの年の審査が例年になく厳しいもので、落選者が続出したのを受け、ナポレオン3世の計らいで開催されたものだった。
 《草上の昼食》は落選展でも批判を浴びた。《オランピア》は審査を通ったが、またもや激しい批難を浴びる。いずれも古典を下敷きにして現代の女性をヌードで登場させた絵だった。マネ自身は言われるほど紊乱な作ではないと考えていた。とくに《オランピア》はそうだった。なぜならサロンで激賞されたカバネルの《ヴィーナスの誕生》のほうが官能的だったからだ。批判の理由は、実際の娼婦をモデルとし、それを特定できる姿で描いたこと。しかも神話を題材にしたことを示すアトリビュートがなかったことが大きな理由だった。
 クールベは歴史画の固定観念に挑み、マネは神話画の固定概念に挑んだのだった。

カパネル《ヴィーナスの誕生》

■近代最大の絵画革命、印象派、爆誕!

 クールベとマネが挑んだ画壇の古典的、権威主義への反抗は、マネを慕うモネやルノワール、ピサロ、シスレー、セザンヌなどに受け継がれ、のちに近代絵画史上最大の革命とされる印象派成立の契機となった。
 印象派は、当時官展に入選できず、アカデミズムであまり評価されていなかった画家が集まり、1874 年に「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第一回展」という展覧会を開いたことに始まる。
 印象派の名称はこの時、モネが自作に《日の出》としかつけていなかったため、カタログ制作者から「何かタイトルがあったほうがいい」というアドバイスを受け、「だったら印象・日の出とするか」といったことから決まった。モネが何気につけたタイトルは、この展覧会を見た批評家の批判の的としてシンボリックに扱われることになる。
 評論家のル・ロワが、この展覧会を訪れた人物があまりの酷さに呆れるという物語式の批評を「印象派の展覧会」というタイトルで新聞に発表したのである。以後この展覧会は「印象派展」という名称で第8回まで続けられた。
 印象派と言ってもそれぞれの画風は異なっていた。リードしたのはモネだった。自然界に存在しない「黒」を使用せず、明度の下がる混色を避けて、原色か原色に近い色を直接キャンバスに塗って、遠くから見ると混色して1 色に見える「筆触分割」という技法を駆使した。この筆触分割はルノワールを始め、他の印象派の画家も採用した。画面の明度が下がらず、素早く対象を捉えて描ける手法は、画家を屋外へと向かわせ、画家にとって自然の中で移ろいゆく光を捉えることの意味を意識させた。モネはとくに光にこだわった。
 モネがこだわった筆触分割はその後、スーラによって科学的手法として昇華される。筆触分割の点をより微細にし、より効果的な配色を極めた。いわば現在のオフセット印刷の原型である。スーラの手法はいわゆる点描という手法だが、その明るい配色は衝撃的で、同時代の印象派、あるいは印象派に影響を受けた画家が一通り取り入れている。
 しかし、肝心の筆触分割を進めたモネやルノワールがスーラを、「不自然過ぎる」と拒否。スーラは第8 回目の印象派展にピサロの紹介で出品するが、モネ、ルノワールは「それなら」と降りた。以後印象派展は開催されていない。実質スーラが印象派展を終わらせたと言われている。
 印象派展は終わってしまったが、与えた影響は大きく、絵画はより自由に変化した。
 途中まで印象派展に出品したセザンヌは、色より形にこだわり、対象を球体、円柱などといった、より単純化した立体の組み合わせで構成する手法を生み出し、のちのピカソらが確立した「キュビズム」の原型を築いた。
 ゴーギャンは印象派にインスパイアされ、原色にこだわり、複数の色から構成された絵から特定の色だけを抽出する画法を確立した。その原色のインパクトから「野獣(フォーブ)」と呼ばれ、後にマティス、ブラマンクなど「フォービズム」と呼ばれる画派を先導した。
 ゴッホもルノワールやモネの原色を使った技法に影響を受け、原色をキャンバスに厚塗りする独特の情熱的な画法を生み出した。
 スーラの科学的筆触分割手法はシニャックが引き継ぎ、「動きがない」と批判された点描の点を少し大きくするなど、情緒的で動きのある画面づくりに取り組んだ。
 この印象派が生み出した画家たちの革命の構図は各国に飛び火した。

■若手画家の守旧派、アカデミーの反発、各国で相次ぐ

 イギリスでは、ロイヤル・アカデミーで学んでいたミレイやハント、ロセッティらが、アカデミーの古い教育法に不満を持ち、反体制的な「ラファエル前派兄弟団」を作る。ラファエルとはイタリアの三大巨匠ラファエロのことである。中世回帰を主張する彼らはラファエロの仰々しいポーズは退廃の一歩と批判したことで、「君たちは前ラファエル派だ」と言われたことがその名の由来となった。現代に神秘性、神話性を取り込んだリアリズム絵画は、大物評論家のラスキンが評価したことで知名度があがっていった。とくにミレイの構想と画力は圧倒的で、代表作の《オフィーリア》は従来の女性美の基準を変え、青白い病弱な女性がイギリスの女性美の規範となっていった。

ミレイ《オフィーリア》

 オーストリアのウィーンでは、歴史絵画や伝統芸術からの“分離”を目指したクリムトを中心とする「ウィーン分離派」が生まれた。金細工が家業だったクリムトは装飾技法を使ったきらびやかな画法を得意として、人生の儚さや死を意識すること(メメント・モリ)を伝えた。
 ドイツでは、伝統からの脱却・分離を標榜する、若手画家の集団「ユーゲント・シュティール(シュトゥック)」を中心とする「ミュンヘン分離派」やマックス・リーバーマンが主導する「ベルリン分離派」が誕生した。いずれの分離派も、官能的で退廃的、幻想的な表現を特徴とした。
 分離派が続々生まれた背景には、各国で進んだ産業革命のひずみや、世紀末に対する漠然とした不安があった。機械化、大量生産による人間性の抑圧に対して、人間の内なる感覚や神秘性などが重視され、それを視覚化しようとする「象徴主義」や「抽象絵画」などが生まれた。
 一方イタリアでは、若手が前世紀までの絵画文化を否定し、20 世紀の新しい要素である「速度・運動・光・機械」を肯定的に取り入れた表現を志向する「未来派」が生まれた。

■世紀末と2度の大戦を経て、絵画はより自由にかつ衒学的に変化

 フランスでは、さらにジークムント・フロイトの精神分析学とマルクス主義の影響を受けた「シュールレアリスム」などが生まれ、モロー、ルドンなどが活躍した。また中世的な植物模様をモチーフとした「アール・ヌーヴォー」が誕生し、クリムトやミュシャが活躍した。
 ヨーロッパでは日本の浮世絵が大ブームとなり、大胆な構図やくっきりとした輪郭、原色などが印象派にも大きな影響を与えている。
 またアフリカの素朴な彫刻や人形なども好まれ、ピカソやブラックなどのキュビズムの画家に影響を与えた。
 印象派展が終了した後のフランスでは、スーラ、シニャック、日曜画家出身の、元祖ヘタウマ画家であるアンリ・ルソーらが、無審査、無償、自由出品できる「アンデパンダン展」を1884年に立ち上げた。アンデパンダン展は、画家の自由度をさらに高め、以後世界中に広まっていった。

アンリ・ルソー《自分自身》

 20 世紀に入ると、ヨーロッパは2度の世界大戦に巻き込まれる。かつての戦争にはなかった大量殺戮兵器が生まれ、ジェノサイドや都市の大破壊が起こった。虚無感や厭世観が世界を覆い、社会や政治に対する批判が激しさを増すと、かつてないほどの既存の価値観への抵抗が高まり、既存芸術を否定する「ダダイズム」が生まれ、デュシャンなどが活躍した。
 デュシャンは1917年に自身が審査委員を務めている展覧会に、偽名で既存の便器を「泉」というタイトルで出品したものの陳列を拒否された。のちにデュシャンの作品とわかると美術界では大きな論争を巻き起こす。デュシャンは現代にとって「芸術とは何か」「美とは何か」を問い直した。
 20世紀に入るとさらに大量生産、大量消費が進むが、こうした拡大する商業主義に対する空虚さ、虚無感をアメリカのウォーホルは、アメリカの代表的食品メーカーのキャンベルのスープ缶32個を描いた《キャンベルスープ缶》を発表した。大量生産・大量消費のイメージを使ったウォーホルのこの新しい試みは「ポップアート」と呼ばれた。また同じポップアートの旗手、リキテンシュタインも商業印刷の網点や、黒い輪郭、あるいは漫画などを活用した独特の作品を残している。
 そして21世紀。
 デジタル化とAIの進展によって、画家が絵を描く意味が改めて問われている。単に技術が優れているかといった基準だけでなく、どのような意味と意義がそこに込められているのか。画家のみならず、それを観る立場の人間の美意識や社会観、人間個人としての体験と感性の歴史が、統合的に問われている。

参考
【書籍】●『世界一やばい西洋絵画の見方入門』山田五郎〈宝島社〉●『世界一やばい西洋絵画の見方入門 2』山田五郎〈宝島社〉 ●『知識ゼロからの西洋絵画入門』山田五郎〈幻冬舎〉●『大学4年間の西洋美術史が10 時間で学べる』池上英洋〈KADOKAWA〉●『美術でめぐる西洋美術史年表』池上英洋・青野尚子〈新星出版社〉●『西洋絵画史WHO’S WHO』監修:諸川春樹〈美術出版社〉●『知識ゼロからの西洋絵画入門』山田五郎〈幻冬舎〉●『絵画の政治学』リンダ・ノックリン/坂上桂子 訳〈ちくま学芸文庫〉●『これならわかるアートの歴史 洞窟壁画から現代美術まで』ジョン・ファーマン〈東京書籍〉●『写実絵画とは何か? ホキ美術館名作55 選で読み解く』●『経済・戦争・宗教から見る教養の世界史』飯田育浩〈西東社〉●『近代絵画史(上)』高階秀爾〈中公新書〉●『近代絵画史(下)』高階秀爾〈中公新書〉●『キリスト教美術史』瀧口美香〈中公新書〉●『東京芸術大学で教わる西洋美術の見方』佐藤直樹〈世界文化社〉●『ジェリコー』中原たか穂〈KADOKAWA〉
【参考サイト】●世界史の窓 ●美術出版 ●美術評論 ●アートスケープ●西洋絵画美術館 ●日本経済新聞サイト ● IMS ●山田五郎オトナの教養講座(動画)ほか

POINT
■会えなくなる人、亡くなった人の顔や形を残すため生まれた西洋肖像画
■西洋絵画はキリスト教のプロパガンダとして発展した
■中世の宗教画は絵画ではなく、信仰対象を崇拝するための「窓」
■西暦800年に、現在のヨーロッパのキリスト教と主権者の関係が決まる
■古代ローマの政治を学ぶ動きからルネサンス誕生
■遠近法、解剖学で絵画技術が高まったルネサンス。神話が好まれ、ヌードも解禁
■「万能の天才」のダ・ヴィンチ、圧倒的質量のミケランジェロ
■イタリアルネサンスは幕を下ろすも、北方でルネサンスが花開く
■宗教改革で宗教画マーケットが縮小
■海運国家オランダでは、市民が風景画、風俗画、静物画市場を拓く
■信者を奪われたカトリック、起死回生の策としてバロック美術を打ち出す
■絶対王政と貴族文化を融合。おしゃれでエッチなロココ、フランスで花咲く
■古代遺跡ポンペイの発見で生まれた新古典主義が興隆
■ナポレオンのイメージアップに貢献した新古典主義画家
■ナショナリズムの高まりと社会運動の勃興でロマン主義が台頭
■ロマン主義のきっかけをつくったジェリコーの《メデュース号の筏》
■産業革命とピクチャレスクが広げたイギリスの《地誌的風景画》
■フーリエ社会主義の申し子クールベ、アカデミーを斬る
■バルビゾン派のミレーは素朴な農民の労働風景で社会の格差を描いた
■生粋のパリジャンのマネ、エスプリを効かせてサロン(官展)に反抗
■近代最大の絵画革命、印象派の技術革新はモネの筆触分割
■印象派展を終わらせたスーラの点描
■印象派以降、若手画家の守旧派、アカデミーの反発、各国で相次ぐ
■世紀末と2 度の大戦を経て、絵画はより自由にかつ衒学的に変化

ビジネスシンカーとは:日常生活の中で、ふと入ってきて耳や頭から離れなくなった言葉や現象、ずっと抱いてきた疑問などについて、50種以上のメディアに関わってきたライターが、多角的視点で解き明かすビジネスコラム

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