現代経営の真髄が詰まった仏教経営学とは─。 – サステナブルマネジメントの奥義は仏教にあり!
宗教と政治の関係が大きな話題となっている。いまはAIやDXが進んだ社会なのだから宗教と政治、あるいはビジネスと切り離し、合理的な判断で運営すべきだと考える人もいるだろう。しかしいかなる時代にあっても宗教と私たちは無縁でいられない。
たとえば、近代国家はキリスト教の影響から免れない。日本もその1国だが、日本の場合は神道や仏教の影響も強い。とくに仏教は檀家制度と結びつき日本人の考え方、組織運営に多大な影響を与えてきた。第一次オイルショック後の1973年に『スモール イズ ビューティフル』を著したイギリスの経済学者エルンスト・シューマッハーは、今日のサステナビリティの淵源ともなる「最小限の資源で最大限の幸福を得る」仏教経済学を提唱しているが、日本では多くの先人たちが仏教を生かした経営を唱え、実践している。
仏教に帰依する経営者たち
経営者のなかには、仏教の教えを積極的に取り入れ、経営に活かしている人も少なくない。
有名どころでは、京セラの創業者で現在のKDDIを創業し、通信業界に風穴を開け、破綻したJALを再生させた稲盛和夫さんがいる。稲盛さんは仏教に造詣が深いだけでなく、自身が仏門に入っている人でもある。
前回のコラムでも触れた、石川島播磨重工業(現在のIHI)から東芝に移って再建の陣頭指揮を執り、その後経団連会長となった土光敏夫さんも有名だ。日蓮宗を信心し、その清貧ともいえるほど慎ましやかな私生活は広く知られるところだ。
そのほか花王の社長だった丸田芳郎さんやバスクリンで知られるツムラの二代目社長の津村重舎さん、宮崎銀行頭取で、仏教振興財団理事長の井上信一さんなど、多くの有名企業や銀行のトップが仏教やその経典の教えを経営に活かしてきた。
なかでも私財数百億を投じ世界中のホテルに仏教聖典の本を寄贈した、精密機器のグローバルメーカー、ミツトヨの創業者である沼田恵範さんの場合は、仏教を広めるためにミツトヨを創業したと言われているほどだ。実際ミツトヨが世界ブランドになり、売上1,000億の企業規模になったときに、満を持して「仏教伝道協会」を発足させている。
海外でも仏教に帰依しながら仕事に邁進する経営者は珍しくない。たとえばアップルの創業者、スティーブ・ジョブスさんは禅の修行者として知られた。
ほかにも多くの中小企業の経営者が、各地で仏教の教えについての勉強会や座禅会に参加しては、日々の経営に活かそうとしている。
「経営」は仏教用語
なぜそれほど仏教を経営者は求めるのか。
よく「仏ごころで商売はできない」という。確かに最小の投資で最大の利益を上げることを是とする現代経営と、極力節制に努め、奉仕する仏教とは真逆のような気もする。
実はもともと「経営」という言葉は仏教用語である。仏教における経営の意味は「自分をどう活かすか」「どういう人生を営んでいくか」ということだ。つまり現代経営の組織や行為、目的もまさに仏教のなかに答えがあるのだ。
仏教とマーケティングは似ている
「仏教とマーケティングは似ている」と語るのが、経営コンサルタントで『難局を乗り切る』などの著がある本多信一さんだ。
マーケティングは最終的に金を与えようとし、仏教は安心を与えようとするというのが本多さんの弁だ。
マーケティングは消費者の潜在的な願望に着目し、その願望の実現プロセスを追及していくのに対し、仏教では浄土からの救い、安心を求める。最終的に求めるものの形は違っていてもそこにたどり着くまでの方法論は似ているというのだ。
例えば、仏教の場合は、
① 人間はなぜ安心できないか。それは生老病死のほか、愛別離苦<あいべつりく>、求不得苦<ぐふどっく>、怨憎会苦<おんぞうえく>、五蘊盛苦<ごうんじょうく>という苦しみがあるから。(愛別離苦とは、愛する人と別れる苦しみ。求不得苦とは欲しいものが手に入らない苦しみ。怨憎会苦とは恨み憎む相手とこの世で会わなければならない苦しみ。五蘊盛苦とは人間の体や心の欲望が叶えられない苦しみを言う)
② なぜその八苦に苦しむのか―それは人間に苦しいと感じる感受があるから
③ なぜ感受があるか―それは五感があるから
④ なぜ五感があるのか―それはこの体があるから
⑤ なぜこの体があるのか―それはこの世に人として生まれたからというようにある問題を徹底的に論理的に考えていくのである。
これに対してマーケティングも
① なぜ同業他社に負けているのか―それは販売力が弱いから
② なぜ販売力が弱いのか―それは市場分析力が弱く、人材に恵まれていないから
③ なぜ市場分析力が弱いのか。人材に恵まれていないのか―それは営業パーソンからの情報のフィードバックが不十分であり、情報収集のための設備投資が少ない。人財のスカウトを積極的に行ってこなかったから
といったように。
曼荼羅図から学ぶ企業組織
さらに本多さんは企業組織は曼荼羅図と似ていると語る。
曼荼羅図は仏教の悟りの世界観を視覚的に表現したもので、いくつか種類がある。よく知られているものに両界曼荼羅や浄土曼荼羅がある。
これらは大日如来を中心に置き、その周囲に薬師如来や釈迦如来を配しているが、本多さんは「自分を大日如来に置き換えてみればその縁に関わる人々の結びつきを実感できる」という。企業組織も同様だ。社長を中心に企画部や営業部、経理部、調達部、製造部や開発部など如来様に代わる役割を持つ人々が配され、その先のお客様と繋がっている。だからお客様との縁を大切にして育てていくことができれば、その企業は繁栄していくはずなのだ。
そしてその縁を取り持つのは情報である。求められていることに応え、情報をきちんとやりとりできればその企業は永続していく。奇しくも現代は、インターネットやSNSを通じて人と人とのちょっとしたクチコミ情報があっという間に広がる時代となった。大量の情報が行き交う時代だからこそ、人と人の小さな縁を大切にする必要がある。その縁の大切さを自覚させてくれるのが曼荼羅図なのだ。
だがこうした世界観を身につけ、問いを繰り返し、物事の道理を突き詰めていっても実際の社会ではうまくいくとは限らない。
ビジネスは苦しくて当たり前
本多さんはビジネスの世界は苦しくて当たり前だと説く。
なぜなら現世には前述した八苦があるからだと。
人によっては欲しい物が手に入り、特段悩みもない幸福な状況にあるかもしれない。八苦が六苦、五苦程度に減っているかもしれない。しかし、それはその時たまたま強弱がついてそう感じているだけで、人はこの八苦から逃れることはできないというのが仏教の捉え方だ。
とすれば、ビジネスに向き合うのであれば、この苦海にどっぷりと腰をおろし、受け入れるという姿勢が必要となる。
一の矢を受けても二の矢は受けるな
仏教ではよく「一の矢」「二の矢」という言葉が出てくる。何か思わぬ事態が降りかかった時、起こる動揺や感情を「一の矢」で、前出の八苦はその代表だ。
元宮崎銀行の頭取で財団法人・仏教振興財団理事長を務め、『仏教経営学入門』を著した井上信一さんによれば、「第一のショック(一の矢)は、仏教を学んだ人とそうでない人ではそんなに変らない」という。「大切なのは第二の矢を受けないことだ」と説く。
第二の矢とはショックによって頭に血がのぼり、右往左往してしまう状態を指す。
「自分だけがなぜこんなことに遭ってしまうのか」。自分で決めたことだが、「あのとき友人が頼みさえしなければ」。あるいは経営者であれば、「自分がこれだけ苦労しているのにどうしてわかってくれないのだ」とか悔悟や恨み、怒りの感情に支配されてしまった状況だ。
しかし過ぎたことを責めたり、言い募っても、なんら解決にならないことは誰もがわかっているはず。わかっていながらこうした二の矢をまともに受けてしまう人がいるのも確かだ。
空を捉えることで
苦海から解放される
井上さんによれば、二の矢をまともに受けてしまうのは自分中心の世界観から抜け出せないからだという。自分中心の考えに立つから迷ってしまうのだと。
仏教の中心にあるのは「空」という考え方だ。空とは色即是空の空である。万物は実態のない空であって、さまざまな関係性のなかで成り立っているというのが色即是空という世界観だ。つまり万物は持ちつ持たれつの関係で成り立っているので、その関係は刻々と変化している。だから現在の関係は永遠に続くわけではないという認識に立つことが重要なのだと井上さんは説く。
また空とは、こだわりのない無心が原点である。
「法句譬喩経」には財やモノについて述べられている。
「 一つとして『わがもの』というものはない。すべてはただ因縁によって自分に来たものであり、しばらく預っているだけのことである。だから一つのものでも粗末にしてはいけない」だからと言ってこの考え方をすぐ経営に当てはめることには抵抗のある人もいるだろう。
大きな会社を一代で築いてきた人なら、自分の血と汗の結晶がいまの会社であり、財産だと思うのも無理からぬことだ。
いま企業には持続可能な社会をつくる責任が負わされている。企業を持続・維持させるためには企業が利益を出し続けなければならない。金を生み貯めることで社業を拡大していくのが経営だ。
井上さんの著書には、東京のレストラン三笠會館の創業者、谷善之丞さんがこのことに悩み、独自の解決案を生み出したことが書かれている。
谷さんは、自社を「金を貯めるタンクと考えるのではなく、金を通すパイプになればよい」と考えた。
昔から”金は天下の回りもの” というが「太いパイプになってそのなかを金が盛んに流れるようにすれば、必要な金に不自由することはなくなるはず」と考えたのだ。
谷さんの考えは孫の善樹さんに受け継がれ、さらに物品、金銭、人間、機械、時間、人の触れ合いを「活かす」という考えに広がっていった。
つまり金や財産、あるいは集まってきた人は所有するのではなく、一旦預って活かすものなのだ。
貯めることがいいのではなく、財産はいかに使うか、どう使うかが問われるのだ。それはお金だけでなく人も、土地も、時間も。谷さんの言葉はまさに経済そのものの原理を語っている。
ドラッカーが見抜いた日本的経営
経営学の泰斗、ピーター・ドラッカーさん。彼が著した『マネジメント』は世界中の経営者が愛読するバイブル的存在だが、彼がもっとも評価しているのは日本型の経営であることは知られるところだ。
なかでも分野や専門性といったセクショナリズムに囚われず、広く知恵や汗を結集して課題に取り組みながら経営を向上させる方法と、いわゆるQC=Quality Control(品質管理)の取り組みの素晴らしさを、高く評価している。
このQCの源流となったのが、日本の大乗仏教であると語るのが、仏教学博士で『「正法眼蔵」の経営力』などの著書がある村山幸徳さんだ。
ドラッカーは日本のQC活動の浸透について、継続的訓練の資質があったからと分析しているが、村山さんによれば、この継続的訓練の源流は大乗仏教にあるという。
世界に冠たる
等性の国を築いた浄土思想
大乗仏教は日本や中国で広まった考え方だが、その発展の契機をつくったのが「浄土」の思想である。浄土とはその字の如く、穢のない清明な世界だ。浄土の思想ではこの穢のない清明な世界から、念仏の声により弥陀がやってきて、救いの手を差し伸べるとされる。
この浄土の思想を積極的に採用し広めたのが法然。法然はその著『選択本願念仏集』で、「民衆が仏の厳しい戒律を守りぬくことは難しい。しかし修行を大衆化することで、あらゆる人が浄土に赴くことができるのではないか」と考えたと記している。
さらにその弟子親鸞は、現世においては悪人も善人も区別せず、むしろ悪人こそ念仏を唱え弥陀に救われるべきとする「悪人正機説」を推し進める。民衆と弥陀の世界が一気に近づいたのだ。
念仏を唱えることで民衆は弥陀の救いを確信し、先人たちは辛い農作業や徹夜の仕事を黙々とこなしてきたのだと、村山さんは述べる。
かくして浄土信仰はいつしか「忍耐」という徳目と「継続」という素晴らしい可能性を日本中に根付かせ、それが現在のQCのベースとなる日本人の勤勉性や根気強さを育んだのだと。
実際浄土信仰を軸とした浄土宗、浄土真宗は日本の仏教宗派で最も信者が多い。
世界中で分断と格差が広がっているとされるが、そのなかでも日本はまれに見る平等意識の高い国だと言われている。この平等性は法然や親鸞の念仏が広まる過程で形成されていったと言える。
かねてより日本の経営陣が欧米の経営陣に比べ報酬が低いことが指摘されてきたが、日本における仏教の浸透経緯からすれば、納得のいく話でもある。
会合に時間を費やすが、
いざという時の行動は早い日本経営
村山さんも日本式経営の原点を仏教用語の「空」に見ている。
村山さんは空を1つの「エネルギー」だと捉えている。
モノにはなんらかのエネルギーが備わっており、それは燃やすと熱として発せられたり、移動するためのエネルギー、あるいは溶解したり気化したりと物質のありようが変化するときにもエネルギーが使われる。
すなわち何ものにも変化できるエネルギーである空が日本式経営の中核にあったからこそ、日本人は融通無碍にさまざまなものを取り入れ、発展させることができたのだと。村山さんは言う。
「自分に向けた意識を捨てれば、世界はありのままに見える。こだわりを捨てるから、決断後は疾風の如くに動く。日本の経営者は孫悟空と同じ『空』の雲に乗っている。『日本では欧米に比べ、決定に到達するのに多くの時間を要している。しかし、ひとたび決定がなされると、日本のほうがうまくことが運ぶ』理由はここにある」。
決定まで時間がかかるものの、決定後の動きが早いのが日本の経営の特徴だという。決定まで時間がかかるのは空を推し量っているから。「だから顔が見えず、何を考えているか外からではうかがい知れない」のだと。
村山さんはこうした事例として、ドラッカーが説明した日本の経営者の意思決定の様子を引いている。
「トップたちは自分の時間を会合に費やす。会合の合間はじっと座り、何杯か緑茶をすすり、耳を傾け、いくつかの質問をする。(略)たとえば、三菱グループ会社の社長が週に一度、一同に会する有名な5時間の昼食会のように。彼らはとにかく、人と会ってじっと座って時を過ごすのだ。そうした会合では、必ずしもビジネスについて話し合うわけではない。でもひとたび危機、あるいはチャンスが訪れると、ひたすら人と会ってじっと座るだけだった者たちは、驚くべきスピードと決意、時には驚くべき冷酷さをもって行動できる。なぜなら、人と会する目的は互いに相手を気に入り、含意を育み、相互信頼を生むことではないからである。なぜ相手のことが気に食わないのか、なぜ意見が一致しないのか、なぜ信頼できないかを理解することが目的なのである」
ここで示される日本の経営が「空」なのだと。
緑茶をすすりながら、時折ぼそぼそと話す。しかもビジネスの核心から外れたことを話すさまは、引退した老人たちの縁側談義を想像するかもしれない。到底欧米の経営者には理解しにくいだろう。
今時のビジネスの指南書には、そもそも会議にはそれぞれ目的があり、明確な結論を導くためのもので、そのための根拠となる数字や事例などを提示し、明快なロジックで参加者を説得し、納得してもらう…そういう場であると言われている。
ドラッカーさんが見た会合は、およそそういった世界とかけ離れていた。しかしそれは空という世界観を持つ日本人ならではの経営方法に基づき行われている得心のいく会合だった。そこをドラッカーさんは見抜いていた。
摩訶般若波羅密が
意味するもの
空の考え方は知恵とも結びつく。
万物がさまざまな関係性のなかで成り立つとすれば、知恵もその関係性のなかでしか生まれない。
知恵は仏教用語では「般若」を指す。般若は、道元が著した正法眼蔵の第一巻の「摩訶般若波羅密」で使われている。
摩訶とは大いなるという意味。波羅密は波羅密多ともいい、パーラメータ、つまり指標や変数を示すパラメータの語源で、「完成する、成就する」というような意味がある。
よって「摩訶般若波羅密」は「大いなる知恵の成就」という意味になる。道元がこの巻を1巻目に持ってきたのは、それだけ重要だということだ。
この冒頭には「観自在菩薩、行深般若波羅密多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄」と経文が書かれている。村山さんによれば、ここに書かれている菩薩とは観世音菩薩のことで、いわゆる観音さまである。観音は大衆から修行生活に入って、指導者となって人々を導いたとある。現代におけるマネージャー、経営者の立場だ。
その意味は「観音菩薩が知恵を完成させようと行を深めたそのときに、全身全霊・全感覚で見極めた」となる。
つまりこの経文は現代における経営者のあるべき姿が述べられているというのだ。ここで見極めるのは何かというと、五蘊皆空、つまり、「心がすべて空であった」ということ。五蘊とは心の作用の5段階を意味し、「色」「受」「想」「行」「識」の5つ。
「色」は、存在するものすべてのことで、「受」はそれを受ける「見る」「聞く」「味わう」「嗅ぐ」「触る」の五感を指す。「想」は「受」を受けて考えること。「行」は思考を受けての行動、「識」は行を受けて残った感情の記憶や情報を意味する。
それら一切が空であるということを見極めなければならないというのが、道元の教えだ。
転じてマネージャーや経営者といった人を導く役目を持つ人は、まず心を空にするよう行を深め、全身全霊をもって知恵(般若)を成就させなければならないというのだ。
だが「心を空にする」と言ってもそうそうできるものではなさそうだ。
そのために経営者のなかには禅寺で座禅を組んだり、無心にお経を唱えたり、写経をしたりする人がいる。いずれも有効な方法のひとつだが、村山さんは脳や心を空にするのはそれほど難しいことではないという。
脳を意識して
明るいイメージで満たす
空にするためには日頃から意識して明るいイメージで満たすようにすればいい。人間の脳は恐怖や悲しみに敏感で、二度と起こってほしくないことほどしっかり記憶するもの。つまり人間の脳は基本的に「ネクラ」なので、それを転換するよう努めるのだ。ネクラから転換するには、「自分の人生はうまくいっている」「私は幸せ者だ」というイメージを定着させることから始めるといい、という。
過去の失敗や辛い経験にとらわれたり、あるいは生まれや学歴などを卑下したりすると、この五蘊皆空に近づけない。こだわりをなくして無心になるために、脳を楽観主義で満たす、明るいイメージをデータベースに保存していくと、やがて脳の記憶は楽観主義で満たされ、楽観論に基づいた行動ができるようになる。一方、五蘊皆空に近づくためには、過去の成功経験に囚われてもいけないと、村山さんは警鐘する。
人は一度危機を乗り越えると、それに味をしめて同じパターンで乗り越えようとしがちだからだ。さまざまな関係性のなかで成り立つ空においては、刻々と関係性が変わっていく。だから空を見極めることができない経営者は2度3度同じパターンを使い、失敗してしまう。自分が見たこと聞いたことをカラにしてこそ成功するのだと、村山さんは話す。
言葉に、過去に、激情に
左右されない心を養う
なぜ心を空にしておくことが大事なのか。村山さんはその理由を3つ挙げる。
1つ目は、人が口にする言葉で心をぐらつかせないため。人の言葉にすぐ動かされるようでは、ものごとを正確に把握することは難しくなる。
2つ目は、ことが起こったときに「過去の記憶を棄てて当たる」ことができるようにするため。言うまでもなく現代社会はあっという間に変わっていくため、過去に縛られていては激しい競争の時代には生き残れない。
3つ目は、できごとに引きずられて激情しないため。換言すれば変化に合わせて心を自由にしておくためである。AIがまさに人類史を書き換えようとし、世界中が気候変動の渦に振り回され、口を極め、銃を向け合う人々がいる混沌の地球において、まさに企業の存在意義、生きる意味が問われている。仏教が説く意義や意味は非常に重いものがある。とくに繰り返し出てくる「空」の概念は、困難に立ち向かう経営者、ビジネスマンに希望と明かりを与えてくれそうな気がする。