天才もカリスマも失敗した! – 天才たちの失敗から学ぶ経営
「私、失敗しないので」とは、テレビの大人気ドラマの中で天才外科医が放った決め台詞。
しかし、どんな天才やカリスマにも失敗や誤算はある。むしろ失敗するからこそ、前進できる。世界のIT産業を牽引するシリコンバレーで、クールでクレイジーな仕事をする連中の合言葉は「誰よりも先に失敗しろ」だ。
誰よりも先に失敗し、問題や課題を発見して、誰よりも早く修正し、誰よりも早く克服した者だけが、前に進む。愚直に真摯に過ちと向き合うから人も企業も成長できる。
失敗を栄養に成長したビジネスのカリスマたちの失敗物語を覗いてみよう。
目次
少しの油断が崩壊を招く。
経営とは砂の城 – ファーストリテイリング 柳井正さん
コロナ禍のなか、「ユニクロ」で知られるグローバル・アパレルメーカー「ファーストリテイリング」は、国内社員の賃金を最大40%上げると発表し、注目を集めた。
市場はこれを高評価し、株価は1.4%アップした。賃金引き上げは、世界水準に比べて国内賃金が低すぎたためであり、人材不足が続く国内で優れた人材の確保につながると見られたのだろう。
もともとファーストリテイリングは、いまからちょうど10年前の5月、創業50年のタイミングで世界各国の従業員に対して「世界同一賃金」を導入すると発表していた。世界26カ国で事業を展開している同社にとっては今回の国内賃上げも世界同一からの差分の調整ということになるのだろう。
このファーストリテイリングの社長兼会長が柳井正さんである。
SPA(製造小売)という業態で、山口県の家業の「小郡商事」という小さな紳士服店から、グローバルアパレルメーカーに育てあげた経営手腕は誰もが認めるところ。世界的ブランドとなった「ユニクロ」や若い世代向けのカジュアルブランド「ジーユー」、さらにアメリカのアパレルブランド「セオリー」などを買収して、いまなお成長を続け、2022年度の売上は2兆3,000億円を超えている。
同じSPA業態の世界的カジュアルブランドとしては、スペインのZARAなどのブランドを展開する「インディテックス」、若者向けのカジュアルブランドH&Mを展開するスウェーデンの「H&Mヘネス・アンド・マウリッツ」、アメリカの「GAP」が有名だが、2021年の時点でそれぞれインディテックスの売上が約3兆5,800億円、H&Mが約2兆4,100億円、GAPが約1兆9,800億円で、ファーストリテイリングは2兆2,100億円で世界3位につけている。
2010年、柳井さんは言った。
「2005年のときは、世界一になる可能性は5%もなかった。いまはあると思う」
円安や積年のデフレの売上は”割”を食っているかもしれないが、柳井さんが予てより構想していた世界一の射程はまだ十分ある。
その柳井さんが書いた「一勝九敗」という本が一時話題となった。カリスマと呼ばれ、成功の連続であるような成功者でも、その実、うまくいってることは10度に1度程度だという内容だ。
柳井さんは最初から世界一を目指したわけではない。常に合理的精神の拡大と上昇を志向し、その秘めたエネルギーは周囲を”感電死”させるほどだと言われる柳井さん。
自ら誘った有能な転職役員に対しても自分の方針に合わなければ容赦なくクビを伝えた。新卒の退職者も決して少なくなく、時にブラックの誹りも受けた。カリスマとワンマンが重厚に重なる柳井さんは、「経営は砂上の楼閣。一瞬でも気を抜いたら、全部が崩壊する」と語るように商品や広告、マーケティングなど重要事項は細部にわたるまで全部の資料に目を通し、自ら判断し、語る。
家業の改革をするも
古参社員が反発
柳井さんは最初からアパレル業界に情熱をかけてはいなかった。いわゆる全共闘の時代に大学時代を過ごした柳井さんは、虚無感を漂わせながら麻雀やパチンコに明け暮れる学生だった。
卒業後に何かをしたいということもなく、「できれば仕事をせずに生活ができればいいな」と思っていたとのこと。就職活動もとくにせず、しかたなく親の勧めるジャスコ(現在のイオン)の四日市本店に就職する。だがあまり優秀な社員ではなかったようだ。雑貨売り場に配属されるもネクタイを締めずに出勤したら怒られたと言う。この時、反発心の強い柳井さんは「まな板や鍋を売るのになぜネクタイをしないといけないのか」と思ったそうだ。
結局ジャスコを1年余りで退職し、実家の小郡商事に入る。
しかし、実家の家業に就いた柳井さんが、自分がジャスコで体験した改善策をそこで次々と取り込むと、古参の社員が櫛の歯が欠けるように抜けていく。最終的に7人いた社員のうち残ったのは1人。
たった1年程度の大手チェーンの知識経験だけで、まがりなりにも何十年とやってきた商売が分かってたまるか—。そういった反発が古参社員にあったのかもしれない。通常であればその時点で、仕事の分からない”若造”の息子を外し、古参社員を呼び戻すのが経営の常識だろう。しかし父親は会社の印鑑と通帳を柳井さんに差し出す。息子に事業の将来を賭けたのだった。
「絶対潰せない」と思った柳井さんにスイッチが入る。その後は社長兼小間使いとして1人で何でもこなしていく。いつしか「無気力な」柳井さんは消え、仕事を楽しむ柳井さんに変わっていった。
会社の組織化を目指し
上場を決意
父が行っていた紳士服店は徐々に縮小し、オーダーメイドではなく、当時流行り始めたVANジャケットなど、カジュアルブランドのセレクトショップに目をつける。
さらに差別化を図るため、中学生や高校生でも買えるカジュアルウエアの店を目指した。そして中国地方最大都市である広島にその第1号店をオープンさせる。「ユニクロ」の第1号店である。
ユニクロは、それまでにないジャンルのファッションを中高生にも買える価格で提供したことから、商品が追いつかないほどの人気となった。勢いに乗って店舗はどんどん増えていった。しかし売上が上がっていくものの、利益がその伸びに追いついていなかった。
個人商店の延長で、店を直営で増やしていったために成長が加速しなかったのだ。金融機関からの借り入れも個人資産をオーバーするようになっていた。そこで成長を加速するために柳井さんは上場を決意する。
当初は資金調達の意味が大きかったのだが、上場を意識することで商人から経営者になる意味を理解していく。会社を組織化して、社長が不在でも回り成長する—そのあるべき姿のために上場準備に取り組んだのだ。
メインバンクに激怒され
支店長室で流した悔し涙
もう一つ上場を目指した背景には、メインバンクとの間で起こった問題があったようだ。一旦借り入れの了解を取り付けていたメインバンクの支店長から、バブルが崩壊したことで、「これ以上面倒は見れない。ほかの銀行を回ってみれば」と言われたのだ。柳井さんは言われたまま他の銀行を回って、担保に応じた借入額の分担表をつくり、助言したメインバンクの支店長に見せたところ、「こんなやり方は許せない」と激怒されたのである。
柳井さんは言われたようにやったのになぜ怒られるのかわからない。そこには「うち(当行)を通して相談するべき」というメインバンクとしてのメンツを潰された反発があったのだ。合理的に考える柳井さんらしいエピソードだが、資金計画の白紙撤回まで言い渡された柳井さんは支店長室で「結局支店長の自己保身のためだけだ」と悔し涙を流したと言う。
この失敗が柳井さんのスイッチを押したのである。
もう1つ柳井さんが上場によって得られるものとして期待したのが人材だった。柳井さんは上場組織を動かすにふさわしい、自分より能力の高い人材を集めようとした。実際上場すると、それまでアルバイトの確保にも困っていたユニクロに、大手企業からの転職組が続々と入ってきた。
大ヒットを記録したSPAのフリースも
ブームは続かず
一方で新たな成長の種も模索していた。その模索中、香港で出会ったのがSPA(製造小売)の実践者だ。柳井さんは香港での広がりを見て、日本での展開を考えた。
それまでの日本のデパートや専門チェーンにはなかった方法だった。従来、メーカーはデパートに売り場を提供してもらうだけで、デパート側は売れた分だけを仕入れるために在庫を保つ必要がない。それに対してSPAは自分たちで企画からデザイン、生産もやり、自分たちで売る。自ら在庫を抱えるので基本は売り切りとなる。すなわち自ら在庫リスクを取るのがSPA方式。
一方で売りたいもの、デザインは自分たちが好きなように考えることができる。
このSPAでユニクロブランドは一気に売上を伸ばしていった。
SPAの成功を機に関西から関東に出店を加速する。だが思惑は外れ、当初は関東でさっぱり受けなかった。失敗は続いた。ユニクロから分かれたブランドとして、ファミリー向け「ファミクロ」、スポーツ愛好者のための「スポクロ」を新たに展開するも、いずれも10数店で撤退している。
しかし大ヒットも生まれた。代名詞となったフリースである。
1999年8月期に1,110億円だった売上は、フリースの大ヒットで2001年8月期に4,185億円と飛躍した。しかし急速な成長は急速な失速を呼び寄せるもの。成長を支えたフリースブームはあっという間に消え、2年後に売上約3,000億円に転げ落ちる。
マスコミは失速と名打ち、店舗の大量出店など批判した。社内も動揺し、多くの社員が去っていった。だが柳井さんはこの「失敗」を折り込み済みだったという。
「商売ってやってみないとわからない。やる前に考えても無駄。やって、考えて修正すればいい。商売はアップダウン。いちいち気にしていたら、商売なんてできないよね」
後継者に指名した社長を3年で解任。
ふたたび社長の座に
柳井さんは自分の才覚に限界も感じていたようで、2002年に副社長の澤田貴志さんに社長要請を行なった。ところが澤田さんが起業したいから、とこれを拒否。
その澤田さんが推薦したのが、中途入社の玉塚元一さんだった。元ラガーマンで、陽気な若大将タイプと称される玉塚さんは、沈んだ空気を変えてくれる人物として適任だった。しかし3年後柳井さんは彼を解任する。解任して再び社長の座に着いたのだ。自ら後継指名をした人物を外して再びその座につく例は、他の企業でもあるが、それはそのまま後継した経営者の後継者育成が失敗したことでもあった。
柳井さんは玉塚さんについて「玉塚君はバランスの取れたいい青年。僕のほうが異常なんです。僕は安定成長じゃだめだと思っている。成長できるし、成長しなければならない。僕は、いい会社というのは、すごく成長して当然だと思っているわけ。だから、すごく成長したい、と思わなければいけない。思っただけではなしに、行動に移さないといけないよね」と語っている。
復帰した理由について、「ぬるい経営になっている。もう一回、勉強しなおそうじゃないか」とも言っている。
結局当時の役員たちは左遷され、ファーストリテイリングを離れていった。
ニューヨーク郊外に
出店するも失敗。
在庫処分セールで大逆転
社長に戻ったものの、事業は順調に回復していったわけではない。
ニューヨークの郊外に出店するも、失敗。仕方なく撤退のためにソーホーの倉庫を借りて在庫処分セールを打ったところ、これがバカ売れしたのだった。そこで場所をソーホーに移して、未経験の1,000 坪という巨大な倉庫跡の物件を借りて開店させると、ユニクロの知名度は一気に世界レベルになる。
ニューヨークでの名声は世界的なデザイナー「ジル・サンダー」とのコラボも実現している。元プラダの著名ハウスデザイナーということで、その知名度とセンスは抜群。ユニクロはハイセンスなイメージのアパレルと変化していった。
しかしそのジルとも数年でコラボ解消。ジルは自らのブランドを立ち上げた。
一方で、合理的な大博打も打って成功させている。東レと技術コラボしたヒートテックだ。2006年に業務提携を発表する。実は柳井さんは、2000年に繊維の名門東レに自社の役員を引き連れて、東レの社長以下役員にこう申し込んでいた。
「ユニクロ専門の部署をつくってください。そのトップには社長が就任してください」と。
世間的には勢いがあるとは言え、格が違う会社が随分な物言いと判断するだろう。東レの役員たちもそこを気にしていたが、社長の前田勝之助さんは、その思い切りの良い申し出に逆に感銘を受け、了承する。
フリースの爆発的なヒットは東レの生産力が支えたのだった。このフリースの信頼関係があって、ヒートテックの躍進があったのである。
グローバル企業の後継者に
求められる資質とは
柳井さんは成長のためのチャレンジはどんどんして、社員の成長を促しているが、「俺が俺が」という突出するタイプは評価しないようだ。そのため何人もの優秀な社員が柳井さんとぶつかり離れていった。
しかし、その情熱のぶつかり合いがあったからこそ、OBの成長にもつながっているようだ。ユニクロ卒業生たちは、自主的に100人規模でOB会を開いている。
「柳井さんのもとで仕事をして、ぶつかったからこそ、今がある」と口々に言う。
とは言え、いよいよファーストリテイリングを引き継ぐ後継者を本当に定めないといけない時期に来ている。柳井さんが敬愛する数少ない経営者の1人、本田宗一郎さんは、そのバトンを子息に渡さなかった。結果、世界のホンダは二輪からロボット、ジェット機まで生み出す世界企業として飛躍した。
柳井さんは、いまなおファーストリテイリングの社長兼会長として巨大アパレルチェーンを率いている。その前に自らが世界一を達成するのか。世界一後、ファーストリテイリングはどう変化するのだろうか。いずれにしても大きな節目を迎えようとしている。そしてその節目で失敗することは、許されないはずだ。
全販売店オーナーの前で涙を流し謝罪した
「経営の神様」 – パナソニック 松下幸之助さん
カリスマと崇められる経営者は、ほかにも綺羅星の如く、いる。
経営の神様としていまも多くの経営者が敬愛、私淑するパナソニック創業者の松下幸之助さんはその代表だ。
9歳で丁稚奉公に出され、商売のイロハを肌で感じ取りながら、電気に関わる仕事に就きたいと16歳で大阪電灯(現:関西電力)に入社。その後22歳で松下電気器具製作所を創業し、自転車専用ランプや二股ソケットなどのアイデア商品で業績を伸ばし、現在のパナソニックの母体をつくった松下さんは、まさに立志伝中の人である。
松下さんが経営の神様と呼ばれるのは、自転車専用ランプなどアイデアを商品にしただけでなく、新しい販売方法も開発したことにもある。自転車専用ランプを開発した時には、自転車店に「品物に信用がおけるようになったら、売ってください。その後安心できたら代金を払ってください」と現在の試供品販売を始めたことや、さらには日本で初となる家電メーカー系列販売店網「ナショナルショップ(現:パナソニックショップ)」を全国につくりあげたことにもある。そして何より雇用を守ることに徹したからだった。
1929年に世界恐慌の波が日本を襲うと、好調だった松下電気器具製作所の売り上げも激減。在庫の山を抱えることになる。加えて松下さんも病に倒れた。まさに弱り目に祟り目の事態。
しかし松下さんは、あらゆる会社がリストラを始めるなか、「賃上げも、首切りも結構やがな。だがしかし、ウチはよそのように人の首は切れん」と雇用を死守したのである。
当時の松下電器産業の社員だけでなく、販売店の家族までも包摂するいわゆる家族経営を実践し、日本的経営の基本をつくった松下さん。それゆえに、社員や販売店にも厳しい態度で接したことも多かったようだ。
商売には波はつきものだ。日本は高度経済成長に入り、業績もうなぎのぼりとなったが、東京オリンピックが開かれた1964年に頭打ちとなる。三種の神器と言われたテレビや洗濯機などが行き渡り、全国の販売店が赤
字経営に陥った。
全国の販売店や代理店の社長からは不満が噴出、松下さんは、全国の販売店のオーナー、代理店社長などを熱海のホテルに集め徹底的に対話することにした。後の「熱海会議」と呼ばれるもので、パナソニックではいまなお伝説の会議となっている。
この時、松下電器産業は1万8000人もの従業員を抱えるまでになり、松下さんは社長職を退き、会長になっていたが、集まった代理店社長からあがる非難に対しては、「ろくな販売努力もしないで不満を募るだけ」に聞こえていた。堪忍袋の緒が切れた松下さんはこう言い放つ。
「血のしょんべんが出るほど努力しましたか」
この発言に会場の代理店社長らは仰天。さらに反発を深めた。議論は平行線をたどり、3日間の予定はさらに延長された。
しかし延々と続く非難の応酬に終わりが見えないかに思えた時、突然松下さんは頭を下げたのだ。
「結局は松下が悪かったのです。皆さんへのお世話が不十分でした。不況を乗り切られなかったのは、松下電器の落ち度です」
涙混じりに語る「神様」の姿に非難の声は小さくなっていった。次第に会場にいた代理店や販売店主の目に涙が滲んでいった。
そして3週間後、松下さんは営業本部長代行として現場に復帰、販売の陣頭指揮を執ることになった。販売体制を見直し、それでも不満を述べる代理店に対しては、膝詰談判で話し合って納得してもらったという。
神様だって間違える。失敗する。熱海の宿の壇上で、松下さんはきっとそう悟ったのだろう。あるいは柳井さん同様に、会長となって現場を離れたことで、現執行部の感度が落ちたのかもしれない。社長復帰こそしなかったが、販売のトップで陣頭指揮を取った姿は、柳井さんにも通じるところがある。
創業時から上場を目指した
「サイバーエージェント」
ユニクロやパナソニックの成長物語は、経営者の励みになるが、近年はそれ以上のスピードで急成長する企業が増えている。とくにIT企業は俗に7年一昔と呼ばれるほど、進化の激しい業界。続々と新しい企業が生まれ、急成長している。
その一方で急降下する企業が少なくない。
そういった戦場で生き残り業容を拡大しているIT企業に「サイバーエージェント」がある。インターネット広告の代理店として、あるいはアベマTVなどでネットでビジネスを勢力的に拡大。2017年の売上高は約3,700億円。社長の藤田晋さんは、大学卒業後1年で「21世紀を代表する企業」をつくるためにサイバーエージェントを起業する。
友人と創業するつもりだったが、最初に入った人材派遣会社インテリジェンスの社長の宇野康秀さんから支援を受けて独立。
サイバーエージェントはインターネット広告代理店の代表だが、最初は21世紀を代表する企業だけを意識していたので、決してインターネットで起業するつもりはなかったようだ。そもそもインターネットについても「これから伸びそう」というだけで手を伸ばしただけ。経営や企業組織についてもほとんど知らなかったため、実際仕事を取ってから商品システムを作れる人を採用したりなど、泥縄の連続だった。
それでもスタートして3ヵ月後には上場を宣言していた。ITベンチャーが集積する渋谷ビットバレーの代表的企業ということでメディアの露出が増え、売上も上昇。このまま上場すれば、20代での史上最年少社長での実現とのことで、マスコミが煽りたて、藤田さんの露出はさらに増えていった。
だが結果として最年少上場は叶わなかった。上場前に起こしてはならないトラブルが続き、ずるずると延びていたのだ。
決定的だったのは、上場前に監査人から「計上の仕方を変えないと上場できない」と言われたことだ。藤田さんは「そんなの変えよう」とあっさり言うが、そのまま素直に変えてしまうと赤字になってしまう。当時目指していたJASDAQは直近に赤字決算があると上場はできなかった。
「このチャンスを逃すと、成長が鈍化してしまう」と焦った藤田さん。しかし彼は強運の持ち主だった。東証がJASDAQと同じようなベンチャーのための市場「東証マザーズ」を設けたのだ。JASDAQ同様、成長性の高いベンチャー企業を引き上げることが東証マザーズの狙いだったが、JASDAQとの違いは、赤字を出していても条件を満たせば上場できることだった。
上場を果たしたものの
株価の下落で買収の危機
果たしてサイバーエージェントは上場審査をパスして無事上場することができた。しかし売り出し価格を上回る株価はついたものの、その後株価が期待したほど上がっていかなかった。ITバブルが崩壊したのだった。逆にずるずると株価を下げていき、あれほど持ち上げてくれていたメディアの論調も逆転、株主からは次第に「金を返せ」という声が大きくなっていった。
さらに上場を機に体制を整えようと立派な経歴のある人を採用するも、肩書だけ欲しい人で指示待ち体質だったり、逆に若手の反乱が起きたり、会社がバラバラになっていった。
さらに下がり続ける株価に対して、出資していたインテリジェンスをはじめとする企業から買収の話が持ちかけられるようになる。
気がつけば、出資比率でいつでも買収をかけられるような状態になっていた。上場によって藤田さんの手元に225億円のキャッシュが手持ち資金として転がり込んだが、事業資金や運転資金に回すことになった。それでも1年後の段階で160億円ほどは残っていた。一方で株価は半額以下となっていた。
なんとしても買収を避けたい藤田さんは、株を購入できる権利(ワラント)に目をつける。藤田さんは上場前に取得したワラントを10数%持っていた。これを行使すれば、株主として安泰となり、買収を避けることができるものの、そのワラント行使は4ヵ月先まで不可能となっていたのだ。
結局、事業提携という名の買収攻勢を受けたりしながら、必死にその時まで耐えることで、買収を回避した。途中、一旦はサイバーエージェントの生みの親でもあるインテリジェンスの宇野康秀さん(現:YUSEN-NEXT HOLDINGS代表取締役会長)に「買
収されてもいい」という旨の発言をしていたが、宇野さんは「おまえの会社、いらない」と突っぱねる。宇野さんは50%を出資しており、役員からも「買収すべき」との声も上がるなか、「経営に口を出さないし、会社を買い取ることもしない」というビジネスマンとして仁義を切って出資比率を下げた。
さらに最も買収したがっていたGMOインターネットの代表取締役社長・熊谷正寿さんについては、熊谷さんが持っていた株を楽天グループの創始者、三木谷浩史さんが半分買い取る形で、筆頭株主の座を守ることができたのだった。
藤田さんがいま、順調に業容を拡大させることができているのは、こうした自身の恵まれたネットワークがあったからこそだと言えるだろう。
藤田さんは、自分の著「渋谷ではたらく社長の告白」の結びでこう書いている。
「私の経営スタンスは『みんなで一緒に会社を大きくしよう』です。昔ながらの威圧的でワンマンな経営スタイルは、21世紀の新しい時代にはもう古いと考えています」
社長は孤独というが、困った時、窮地に立った時、気軽に頼れる内部、外部の人がいることが、これからの社長のあり方なのかもしれない。
流通王として世界を覇権。
アマゾン創業者ベゾスさん
藤田さんに限らず、IT関連事業で一気に会社を成長させた経営者はまだまだいる。海外に転じるとアマゾン・ドット・コムを企業したジェフ・ベゾスさんなどはその代表だ。
ベゾスさんは、藤田さん同様に「これから伸びそうな分野」ということでさまざまな業界の成長性に注目、なかでもインターネット分野、とりわけeコマースの成長性がずば抜けていること突き止める。1994年の段階で年間2300%という、驚異の伸び率だったのだ。
そしてベゾスさんが目をつけた商材が、本だった。インターネットが拡大し、活字離れが話題になる日本だが、当時から海外でもその懸念があった。しかし好きな本がすぐ届くというビジネスモデルは、本を読みたいものの時間がかかることであきらめていた潜在的需要を呼び起こせることを証明した。実際1995年にアマゾンを立ち上げてからは1ヵ月で全米の全州と世界45ヵ国に本を販売したのだ。
2023年次でベゾスさんは、約1300億米ドル、日本円で約18兆円の資産を持つまでになっている。
そんなまさに絵に描いたような成功者のベゾスさんだが、失敗もしている。たとえば1999年にはじめたインターネットオークションのビジネス。得意のAIを使った自動マッチング機能が却って混乱を来たし、撤退している。またペット用品を扱う会社の買収や電子メールのグリーティングカード部門などにも失敗している。
在庫をもたない
ビジネスモデルを方向転換
ベゾスさんは、ネットビジネス企業者の多くがそうであるように、在庫をもたないビジネスモデルを考えていた。しかし、本という現物を素早く届けるためには、逆に大型で使いやすい倉庫が必要であると、起業後理解する。そのため先行投資がどんどん増えていき、なかなか黒字化しなかった。ただ幸いにもまだインターネットビジネスに対する期待感が高く、投資家が投資を続けていた。
それでも当初はインターネットで本を売る意味と意義が伝わらず、投資家を説得するために相当苦労したようだ。
ベゾスさんは、増え続ける損失に対して親しい友人を頼り、「君だけでも小切手を切ってくれ。誰かが行動を起こさないと、誰も動かないんだ」と懇願している。その際は最終的に20人の投資家から当時の資金で98万米ドルを調達し、難を逃れている。
どんな秀才でも
「ビジネスは十中八九間違える」
そのベゾスさんはこんな言葉を残している。
「顧客は鋭く、賢い。ブランドというのは信頼にもとづいて築かれるのであって、決してその逆ではない。競合ではなく、お客さまのことを怖れよ」
「発明するには実験が必要だ。しかし、成功すると分かっているのなら、『実験』とは呼べない。十中八九、間違えるだろう。だが、ホームランもあるはず」
ベゾスさんは、名門プリンストン大学でコンピュータ・サイエンスを専攻し、卒業後はヘッジファンドに勤めていた極めてスマートな人物。常に経営判断は緻密なデータの予測をもとに行っているが、その彼でも、ビジネスは「十中八九」間違えるのだと言っている。大事なことは素早い修正力と失敗しても諦めずに、ホームランを追う姿勢が重要なのだと説いている。
学生時代は落ちこぼれの
ジャック・マーさんが
つくった帝国、アリババ
同じインターネットを使ったeコマースでたちまち世界企業をつくった中国人がいる。アリババグループ(阿里巴巴集団)の創業者、ジャック・マー(馬雲)さんだ。
アリババグループの売上は2022年度が日本円で約110兆円。地球規模のeコマース企業だ。
創業者のマーさんは、アメリカのシリコンバレーから世界企業になったアマゾンやマイクロソフト、グーグルなど名だたる創業者のように、一流の大学の先端科学を学んだ人たちとは毛色の違う経営者だ。
経営者としての失敗より、その前の人生の前半での失敗の多い人だった。まず小学校の進級試験で2回。中学校でも3回失敗している。大学受験では3つ受け、全滅。進学を諦めて三輪自動車の運転手になっていたこともある。卒業後の就職活動では実に30回も落とされている。一般企業のほか、警察の試験も落ちている。
つまり、エリートには程遠く、どちらかと言えば落ちこぼれなのだ。
9歳の頃から
外国人相手に観光ガイド。
英語力がマーさんを導く
そんなマーさんとアリババグループを結びつけたもの――それは英語だった。9歳の頃から外資系ホテルに通って、外国人相手に観光ガイドを買って出ていた。そこから英語に興味をもって、英語の教師を目指して英語教師養成の大学に進学。そこで語学力を磨いて、卒業後は工業大学で貿易英語を教えていたが、ある時政府の事業の視察でアメリカを訪れた際、そこでインターネットを知り、興味を持つ。その時点でマーさんはインターネットが何であるかも分かっていなかった。ましてネットでモノの売買ができるとは想像だにしていなかった。
しかし、インターネット上にあらゆるものが売られているという事実を見せつけられ、それが中国ではまったくできていなかったことを知ると、俄然事業に対する興味が湧いたのである。興味というより、それは一種の使命感のようなものだった。
最初はインターネット上に商品情報を提供する中国版イエローページの展開だったが、その後大学を辞めて、政府系機関に入ってeコマースのシステムの開発を研究する。そこで学んだノウハウをもとに1999年、アリババネットを開始したのだった。
失敗に「慣れる」ことで、
自分を見つめることができる
中国でビジネスをするというのは、政府や法律とのせめぎあいだ。ITビジネスやインターネットビジネスの多くはアメリカで生まれているが、その方法論が必ずしもすべての国で当てはまるとは限らない。
アリババの決済は代金が先払い。中国ではそういったビジネスは珍しく、しかもサイト上で金銭のやり取りをするということは、当時の法律に抵触するものだった。
それまで中国では、ネットで決済することがなかったのだ。だからこそやる意義があるとマーさんは考える。
「ライセンスが必要だったんです。でももし私がやらなければ、eコマースというシステムは誰もやる人がいなかったわけです。そこで私は、リーダーとして討論の場を設けました。時代の先駆けとなるリーダーシップとは、責任を負うことです。私は友人や同僚たちに電話をかけました。『今やるんだ!今すぐに!実行してもし万が一、何か法的な問題があれば、私が責任を取って刑務所にでも入ってやろう。それくらいの覚悟はできている。それでも、今やらなければいけないんだ。eコマースは中国にとって、そして世界にとって、非常に重要なシステムなんだ』」
最初、中国人やeコマースの先駆者たちもそんなことで儲かるわけがないと思っていたそうだ。しかし、幸いなことに彼は自分の頭で考える癖ができていた。それは9歳の頃から通ったホテルで、実際に交流した西欧人から身につけた生の英語から知ったことだ。
「学校の教科書で習う英語や、親が教えてくれる英語とは全然違うんですよ。以来、私は見るもの、読むものなんでも鵜呑みにせず、必ず自分の頭で考えることを習慣づけています。2分間は考えることにしているんです」
そこには失敗を重ねてきたマーさんだからこそ読み取れる、挑戦の意義があった。失敗の繰り返しがマーさんを強くした。ここぞ、という時に馬力を与えたのだ。
それを彼はあるインタビューで「慣れ」と表現している。
インタビューアー 「そういう試験に落ちたり拒否されて挫折したとき、どう克服したらいいと思いますか?」
マーさん 「うーん、私が思うに”慣れ”かなぁと思いますね。誰でもそういう失敗はありますし、私自身も優秀ではなかったし。今でも多くの人々に拒否されることなんてよくありますよ」
「政府と恋愛しなさい。
でも結婚しちゃだめだ」
起きてしまった事実に執着せずに、淡々と挑み続ける。そんな強さを感じる。もう一つ彼が中国で成功できたのは、独特の達観から生まれた哲学にもあるようだ。マーさんがアリババネットを開始する前に創業メンバーに対して、こう言う。
「政府と恋愛しなさい。でも結婚はしちゃだめだ」と。
マーさんは起業に際しても、起業してからも、政府系の資金は利用しなかった。投資は主に米国や日本から受けている。ネットビジネスの成長性や自由度を考えた時にどういう資金調達がベストなのか、しっかりしたビジネス嗅覚が培われていたのだ。
マーさんは、2023年5月、東京大学の客員教授となった。学生時代落ちこぼれだったマーさんは、日本を代表する俊英たちに何を語り、そして俊英たちは何をマーさんから学ぶのだろう。
スティーブ・ジョブズさんの
「私の人生のなかで
起こり得た最善のできごと」
失敗を繰り返した天才経営者の名前を挙げるとすると、アップル創業者のスティーブ・ジョブズさんの名前を外すわけにはいかないだろう。まさに20世紀と21世紀を代表する天才経営者だが、その経営者人生は失敗というより波乱万丈と言えるだろう。
彼の最大の失敗は、自分が育てたアップルに自分が口説き落として入社させた経営者からクビを宣告させられたことだろう。この時彼は30歳。クビを宣告したのは、元ペプシコーラのトップ、ジョン・スカリーさんだった。
急成長したアップルをしっかりとした世界的企業にするために、世界を知る経営者が必要だと思った彼は、アップル入りを渋るスカリーさんに「いつまでも砂糖水を売ってるつもりだ。世界を変えたくないのか!」という激烈な言葉を浴びせ、入社させている。ジョブズさんはそこまで入れ込んだ人間から追い出されたのだ。
どこか柳井さんの復帰劇にも通じるところがあるが、柳井さんとの違いは、出ていった人が逆転していることだ。あれほど愛情を注いだアップルから自分が追い出されたところに、アメリカ経営のシビアさがあるような気がする。
彼はすぐさま仲間とネクスト社という新しいパソコンメーカーを立ち上げる。しかし、最初の商品は価格が高すぎてあまり売れなかった。そこで第二弾の商品をビジネス向けとして開発したが、これも売れなかった。アップルはもともとパーソナルコンピュータとして成長してきたために、いわゆるB2Bのノウハウがジョブズさんにはなかったのだ。
結局彼はネクスト社のハードウエア部門を売り払う。しかしこの時残しておいたのがコンピュータを動かすオペレーションシステム、いわばソフトの心臓部であるOSのネクストステップだった。
ネクストステップはしばらくネクスト社に眠っていたが、これを採用する会社があったのだ。彼を追い出したアップルである。アップルはジョブズさんを追い出した後、ヒットに恵まれず、起死回生の次世代OSを開発する必要に迫られていた。そしてネクストステップを搭載して誕生したのがMacOS X(テン)である。このMacOS Xは後に画期的な次世代携帯電話、iPhoneのOSのベースとなった。
ジョブズさんはふたたび自分のつくった会社、アップルのトップに戻ったのだ。そこからの快進撃はご承知の通り。
ジョブズさんは2005年、スタンフォード大学の卒業式に招待されたスピーチで、自分の人生に大きな影響をもたらした3つのできごとを挙げている。その一つがこのMacOS Xの話だ。
「その時には分かりませんでしたが、のちに私の人生のなかで起こり得た最善のできごとだったと思いました。成功者の重圧から新参者の身軽さにとって代わり、私の人生をもっともクリエイティブな期間へと解き放したのです」
自信家のジョブズさんもアップルを追い出された時は数ヵ月も何も考えることができず、シリコンバレーから逃げ出すことも考えたそうだ。しかし時に成功者にとっては、こうした思いもよらない冷却期間が必要だったのかもしれない。
実際、彼は自分のセンスに自信を持っていた。アップルの魅力は製品や画面の美しさ、使いやすさだ。そのことについて、かつてウインドウズという基本ソフトを世界に送り出したライバル、ビル・ゲイツさん対して、「センスのない三流品だ」と言ったほど。
冷却期間を得たジョブズさんは、そのセンスを活かし、自らアニメーションスタジオ「ピクサー」を立ち上げている。ピクサーの送り出す、高詳細でリアル、かつ親しみやすい作品は、映画の世界を大きく変えた。このピクサーもジョブズさんがアップルを追い出されなければ生まれなかった。
藩の金を放蕩に使って左遷。
三菱グループの
基礎をつくった岩崎弥太郎
失敗と冷却期間。そして再挑戦。それは何かを生み出すための必然の方程式なのかもしない。とくに会社や時代が大きく変化するときこそ求められる。
最後にその1人の体現者、三菱グループを作った岩崎弥太郎の失敗を記しておく。
岩崎さんは高知県の現在の安芸市の代々郷士の家に生まれた。しかし彼が生まれた時には郷士株を手放して、地下浪人となっていた。名字帯刀は許されるが、実質的に農民。
彼は将来学問で身を立てていくつもりだった。運良く1854年、19歳の時、江戸で遊学する機会を得る。学問の重要性を理解していた父母は、その費用を先祖代々の山林を売ってあてがい、その願いを叶えたのだった。
その後彼は、土佐藩の藩主山内容堂に、藩政改革を指導していた吉田東洋とともに登用される。吉田の藩政改革は藩内に特産品を中心とした産業を興し、外国と交易して軍を近代化する、いわゆる富国強兵策だ。
藩は岩崎さんに長崎へと調査に向かわせる。外国にはどんな産品が売れるのか、どんな期待をしているのかを調査するのだ。しかし岩崎さんはどのような調査をしていいのか分からず、連日異国人を招いてどんちゃん騒ぎを繰り返し、たちまち公金を使い果たしてしまう。岩崎さんは当然大叱責を受け、職を罷免されてしまう。岩崎さんはしばらく在野で暮らしていたが、再び藩から声がかかる。当時土佐藩は長崎の出張所である長崎商会を通じて貿易を始めたものの、欲しい商品が多すぎたため、輸入超過となり、立て直し役に白羽の矢が当たったのだ。
当時の各藩は、風雲急を告げる時代の変化に対応すべく、武器や船舶を大量に購入しようとしていた。台所事情の苦しい土佐藩にとっては難題だったが、岩崎さんは長崎遊学で知ったグラバーなどの支援もあって、他藩に有利な状況で購入を進めることができた。放蕩にも近い行いがここで活躍することになったわけだ。
その後岩崎さんは藩の事業を率先してまとめ、藩運営の貿易会社「九十九商会」のトップになる。のちに幕藩体制が崩壊すると、岩崎さんは藩士らを受け入れ、これを発展させる。この九十九商会こそが、後の三菱グループの母体である。
失敗や失職、挫折、下野…。人生や経営には思いもよらないことが起こる。ファーストリテイリングの柳井さんが言うように、ビジネスは失敗の連続であり、よくて1勝9敗なのかもしれない。失敗から何をどう学び、どう行動に結びつけていくか。その修正力と実行力が名経営者の基礎力になっているのは間違いないようだ。