戦国時代の名参謀の「仕事」と「資質」
アメリカや中国、あるいはインドや東南アジアに比べ、日本のスタートアップやベンチャーの数が少ないと指摘され続けている昨今。それでもさまざまなスタートアップやベンチャーが生まれつつある。ただその成長が限定的で、”スケールしない”ことが問題となっている。
日本では戦後、さまざまな起業家がベンチャーとしてビジネスを興し、世界に雄飛していった。こうしたスケールした企業を紐解くと、創業者やトップの力量もさることながら優秀な側近の存在が欠かせないことに気付かされる。
本田技研における藤沢武夫さん、ソニーにおける盛田昭夫さんなどがその代表だ。彼らがいたからこそ、創業者は気宇壮大な夢の実現に一心に突き進むことができたとも言える。
彼らのような側近は、いわゆる参謀といわれる人たちだ。歴史をたどると最も参謀がクローズアップされたのは戦国時代である。NHKの大河ドラマではそういった参謀がよく主人公となる。2007年の「風林火山」山本勘助は、名参謀の代表だし、上杉謙信を支えた「天地人」の主人公、直江兼続もその一人だろう。
天下統一を目前にして果てた織田信長も、羽柴秀吉とういう参謀がいなかったら、尾張の一武将として歴史の片隅に取り残されていたかもしれない。
その秀吉にも黒田官兵衛、竹中半兵衛をはじめとした名参謀が揃っており、ほかにもさまざまな参謀がいた。
目次
名参謀・名軍師に求められた6つの能力とは…
戦国時代において参謀は軍師とも呼ばれ、主に戦略から戦術の一切を取り仕切っていた。しかしながらもともと大河ドラマのような知略に満ちた者たちが行う職務ではなかった。
歴史研究家の榎本秋さんの著書『戦国軍師入門』によれば、軍師の仕事は、主に戦況を占ったり、勝利の祈願、出陣の儀式、天気を占うなど、実際の作戦とは縁遠いものだったという。
それが時代を追うごとに、実際的な戦略や戦術、それに伴った武器や食料の確保、いわゆる兵站などの技術などが求められ、それを自家薬籠中のものとしていった者が名軍師、名参謀と称されるようになっていったようだ。
榎本さんによれば、戦国時代に名軍師に求められた能力は次の6つだという。
1) 戦場で実際に活躍できる「武勇」
2) 大名の相談役として広く物事を見渡し、適切にアドバイスできる「戦略・戦術」
3) 鉄砲や築城などの「特殊技術」
4) 敵への裏切り工作や、中立大名の取り込みなどの「交渉能力」
5) 大名からの「信頼」
6)「官僚的実務能力」
どうだろう?現代の経営に置き換えても十分必要な要件ではないだろうか。たとえば1つ目の武勇は、決して血の気の多さを意味するものではない。
しかるべき時にしかるべき能力を発揮する。あるいはそれ以上の力を出すことで、組織全体に活力を与える。のみならず、暴走しそうな者を諌め、冷静さを取り戻させるような能力と読める。最近の言葉でいえば、「モチベーションマネジメント」の能力とでも言えるだろう。
2つ目の戦術・戦略については、軍師といわれる以上、当然の能力だと考えられよう。ただ時には主君と意見を異にすることもあり、その際は切腹を覚悟で忠言するか、あるいは主君が全責任を負う形で採用する、オールオアナッシングの形が多かったようだ。互いの責任が明確な分だけ、両者の折衷・妥協という案は少なかった模様だ。
マーケティング論や経営の数値化が進んでいる現代では、分析ソフトなどを使えば、ある程度の予測や戦略を導き出すことができる。そのため逆にどの企業も似たような戦略を取ることになり、戦国時代の名軍師のような奇策などが生まれにくくなっているかもしれない。変化の激しい現代においては、奇策や暴論といわれる手法を堂々とうちたてられる環境づくりが求められているかもしれない。
3つ目の特殊技術も現代に求められる能力だ。戦国時代は築城や土木技術、あるいは鉄砲をはじめとする火薬などの技術を十分にもった者は少なく、貴重だった。秀吉は戦術の天才だったが、とくに城の攻め方、落とし方、そして作り方を熟知していた。その中には小田原城攻略のようにたった一夜で城を築いたこともあるとされ、相手方の度肝を抜き、戦意を喪失させたといわれている。戦国時代の後半ともなると、築城技術はその重要性とともに広まっていったが、そのなかでも秀吉のように他を圧倒するような速さで作り上げるなど、持てる技術を磨き上げれば、技術や能力の可能性は広がる。
最近では企業内に特殊な技術、スキルをもった人が増えているようだが、日本の場合、依然経営幹部になるためには経営学や経済学、あるいは製造業なら機械工学や電
子工学、生分解化学などその専門分野を修めた人々が有利とされている。しかしたとえばイギリスなどの金融業界では、哲学や文学、人類学など、金融とは違う分野の人を積極的に登用する傾向があり、それが企業全体の底力を生み出している。
「奇貨置くべし」という言葉があるが、変化の激しい時代には一見関係性の薄い技術でも積極的に取り込む、そのような技術を持つ人材を登用することが、企業の成長には重要になってくるのではないだろうか。
4つ目の交渉力も、現代社会ではよく挙げられる能力だ。戦国時代における交渉力は、いかに戦わずに済ませるかを考えることである。その前提となるのが、情報収集力。インターネットが発達した現代では誰もが同じような知識を得られるようになった。だからこそ、ネットでは得られない「生」の情報が重要になる。より当事者に近い情報を得て、その真意や背景を探ることは参謀に限らず、あらゆるビジネスマンに求められる行動だ。
戦国時代も後半になると、国全体に戦争自体に嫌気をさす空気が漂い、いかに戦わずに有利な条件を引き出すかということが重視されるようになる。そのためには人脈も欠かせない。いかにいい人脈を持つか。これは日ごろのその人となりが問われる。礼儀を欠いたり、陰口をたたくなどのモラル、マナーはもちろん、常に自分に有利な条件だけを引き出すような態度をとらないことが不可欠となる。戦国時代は下剋上の世界。どこに裏切りの種があるかもしれないからだ。
互いの利害の落とし所を見極め、無駄な争いを避けさせた今川義元の参謀、太原雪斎
最高の戦略は戦いをしないことだといわれるように、そもそも名軍師や名将は無益な争いはしなかった。その好例が今川義元の参謀、建仁寺の僧侶、太原雪斎である。当時義元は武田信玄軍と同盟を組み北条氏康と戦を交えていた。義元の目的は上洛し、室町幕府を再興することにあったため、できればこの戦いは避けたいところ。雪斎は義元に氏康と和睦すべしと、進言する。
上洛を目指す義元に対して、氏康の狙いは関東で、京は狙っていない。一方武田にとって最大のライバルは越後の上杉謙信。時折関東にも切り込む謙信は、氏康にとってもライバルとなっていた。そこを読んでいた雪斎は、互いの究極の目的のためには、目先の戦いを避けて手を結ぶべきと考え、武田、今川、北条の三国同盟を実現させたのである。
三者の思惑を読んだ雪斎は、まず和議に関して信玄の同意を得、次に氏康の合意を取り付けた。謙信との戦に専念したかった氏康は、和議を受け入れることで面目を保つことができた。その後雪斎は駿河の善得寺に三名を招き、それぞれの領地である駿河、相模、甲斐を不可侵とすることを決めさせた。さらに氏康の娘が義元の嫡男に嫁ぐことが決まり、信玄の娘も氏康の嫡男に嫁いでいる。無益な戦いをしないためにも、参謀は情報収集力を磨き、ネットワークを広げ、交渉力をつける必要があったのだ。
戦国時代は企業グループの大M&A時代
5つ目の信頼も現代に通じる話だ。日本では成果主義やフラット型組織など欧米型の会社経営が広がってから、日本的な家族型・村社会的な経営が崩れてしまった。かつてのように会社に忠誠を誓う人は少なくなり、転職も珍しくない。だからこそ、信頼が重要になってくる。それは戦国時代も同じだ。
そもそも戦国時代は主君に忠実であることに義を見出してはいなかった。というのも彼ら自身、多くの部下を抱える豪族・大名であり、いわば企業の経営者であったからだ。つまり戦国時代は大小さまざまな企業がM&A(吸収・合併)を繰り返しながら、より大きな企業グループに収れんされていった時代だった。
自社の成長・拡大を図りながらも、その成長・生き残りのためにも、どの企業と手を結び、どの企業グループに入った方が、資金や報酬、技術、ステイタス、ブランドなどを手に入れられるかが、当時の大名たちの関心事であったのだ。そういった時代であるがゆえ、部下の離反にも細心の注意を払わなければならなかった。トップに才能がないとみるや平然と離反し、ライバルに加勢する者も少なくなかったからだ。
名参謀や名軍師の誉れ高くなればなるほど、当然ヘッドハンティングの話も舞い込んだ。
大河ドラマの主人公となった直江兼続については、時の天下人秀吉がほれ込み、豊臣の姓を授けるとまで言って参謀に誘ったにも関わらず、上杉景勝のもとを離れることはなかった。兼続が評価を受けるのは、世の中が疑心暗鬼になっている戦国時代だからこそでもあった。
人望がなかったのに東軍以上の軍を集めた石田三成
6つ目の官僚的センスは、当初それほど必要とはされなかった。しかし戦国時代も後半になると、各大名も組織化されて大型化していったため、財務など事務方の能力が相対的に求められていった。秀吉の参謀として頭角を現し、やがて関ヶ原で家康と戦った石田三成はその典型だった。
三成は切れ者だった。正しいと思った主義主張はたとえ敵をつくってでも曲げず、論でのし上がってきた参謀だ。それゆえ人望は厚くはなかったとされる。そんな彼が関ヶ原で家康軍を上回る兵を集めたことは特筆に値する。三成は自分に人望がないことを知っていた。だから関ヶ原の時には、より人望のある毛利輝元を大将に立てたのである。
戦の結果は一部の武将の寝返りがあったことや、動くはずのいくつかの大名が動かなかったこと、あるいは細かな連係ミスなどにより家康の勝利に終わる。
もちろん、欲と知略と胆力が渦巻く、まさに天下を分ける戦いにおいて雌雄を決したのは、究極の諜報力であり、そのための地ならしを淡々と行っていた家康の他大名に対する懐の深さ、忍耐力があったことは間違いない。もっと言えば、最終的に家康の強運がものを言った。
戦略や人心掌握に歌を生かした太田道灌
名参謀、名軍師と呼ばれるためには、教養も必要だった。例えば江戸城の築城で知られる太田道灌。和歌をたしなむ歌人としても有名だった。この歌の素養が、折々の戦略を成功に導いたとされている。ある時、主君である上杉定正が、千葉の庁南を攻める際、そのルートを策定するにあたって、山側と海側をいずれかの選択に迷った。事前情報によれば、山側のルートには石鏃(いしやじり)が仕掛けてあるという。海側を進むには引き潮が条件だったが、海岸まで出なければ、それがわからない。その時、道灌は海岸線まで出ずとも、引き潮であると断言し、主君に進軍を勧めたという。道灌はその理由を「遠くなり 近くなりみの 浜千鳥 鳴る音に潮の 満ち干をぞ知る」という歌を紹介し、千鳥の音が遠くに聞こえたので、引き潮であることがわかったのだと答えたのである。定正が進むと果たして、潮は引いており、定正の軍はなんなく進むことができたという。
また利根川を夜渡ろうとしたときも、「そこひなき 淵やはさわぐ 山川の 浅き瀬にこそ あだ波は立て」という歌を引用し、波音が聞こえるところこそ、浅瀬であるから、そこを渡るべしと進言している。エンジニアであり、科学者である道灌らしいエピソードである。道灌は和歌から巧みに人の心理を読み、戦術に生かしてもいたのである。どことなく夏目漱石の門下生で物理学者でありながら名随筆家を残した寺田寅彦に通じるとこ
ろがある。
道灌にはこんなエピソードがある。あるところに罪を犯し、屋敷に籠城した配下の者が7人いた。この時道灌は使いの者を送り、1人だけ助ける心づもりなので、心しておくようにと伝えたところ、あれほど決死の思いで固まった者の太刀先が鈍ってしまった。そこにすかさず道灌の部下が切り込み、全員を討ち取ったという。道灌の心理作戦があたったのだが、これも「世の中に ひとりとどまる ものならば もしや我かはと 身をや頼まん」という歌に倣って、ただ一人だけに幸運が舞い込むなら、自分だけはと祈るような気持ちに誰もがなるという心理があると道灌が知っていたからだといわれている。
身を賭して進言する江戸時代の参謀
参謀の力は江戸幕府が開かれてからももちろん求められた。戦国時代のような武術や武勇はそれほど必要はなくなり、石田三成のような官僚的な、もしくは企業の安定成長のための経営的センスに似た能力が求められていく。
こうした能力を持っていたのが、江戸時代の折々に行われた改革の実行者などだ。
しかしながら江戸時代は、戦国時代のように下剋上が前提となっておらず、また何か問題を起こした場合は、家ごとつぶされる仕組みであるため、トップに楯突くことは相当勇気の要ることだった。
それでも名参謀と呼ばれる者たちは、まさに首をかけてトップに進言し、その策を実現していった。それは逆にその参謀の進言をどこまで素直に受け入れるか。その度量で将の器が決まるとも言える。
初代紀州藩主徳川頼宣の参謀を務めた安藤直次がそうだった。ある時頼宣が短気を起こし、部下の頭をさやで殴った。その際、鞘が割れて刀が部下の頭を傷つけた。それをあまりに行き過ぎたと怒った部下が、切腹して腹いせすると言い出した。それを安藤が「早まるな」ととりなし、一方で、このことで頼宣の評判が落ちることを案
じた安藤は頼宣に謝るべきと進言する。安藤は頼宣を説得する際、頼宣の膝を抑え立ち上がれないようにし、こんこんと説得した。当初頼宣は断固として反対したが、安藤の進退をかけての抗議に折れて、わざわざ部下の家に向かって謝ったという。このことはやがて頼宣の将たる器を形成する大きなきっかけとなったと言われている。安藤が抑えた膝には長年あざができ、頼宣はこれを見るたびに自分の過ぎた行いを常に戒めるようになったとも言われている。
いかに耳の痛い話を受け入れ、またそれを将来のためにつなげることができるかが、将たる器なのだろう。
参謀は企業ステージで変えていくことも
現代の有名企業をみていっても、主君(社長)と二人三脚で成長させた例は多い。有名どころでは上述した本田宗一郎さんを財務面で支えた本田技研の藤沢武夫さん、井深大さんの理念を理解し支えたソニーの盛田昭夫さんなどのほか、一人の天才が一代で築いたかのように見える昨今のベンチャーでも、名参謀はいた。
たとえば、ベンチャーのカリスマ、孫正義さんが率いるソフトバンク。携帯電話のキャリアとして、若者の圧倒的な支持を得、プロ野球の球団も持つ大企業となっている。ソフトバンクは孫さんが高校中退後渡ったアメリカの大学で発明した自動翻訳技術を、シャープに売り込み、その得た資金で設立した会社だ。設立後はパソコン関係の出版業務や自動的に安い電話回線を選び接続するシステム「LCR」などを開発、そのたびに業容を急速に拡大していった。
米国勤務経験もある公認会計士・山田有人さんの著書「最強の経営参謀」では、孫さんは会社のステージが変わるたびに参謀を変えていった経営者として紹介されている。
孫さんの庇護者とも言われる元シャープの副社長佐々木正さんが孫さんについて「孫という登山家にはその時々にシェルパがいる。そのシェルパは上に上がる度に代わるんですわ」と語っている。実際に創業時には野村證券出身で元セコムの副社長大森康彦さんを招へい、株式公開には東京証券取引所出身で、日本勧業角丸証券の公開引受部長だった小林稔忠さんを引っ張ってきている。そしてソフトバンクが投資・金融業に参入した際には、野村證券出身で、金融や企業買収に詳しい北尾吉孝さんを招へいしている。北尾さんはライブドアによるニッポン放送株の買い占め、それに伴うフジテレビへの支配力強化策に対抗するホワイトナイトとして一躍脚光を集めた。しかしそれ以後、北尾さんと孫さんの関係はそれほど密ではなくなったと分析している。
このように現代企業においては、その必要に応じて、参謀をつけていくというのも手なのかもしれない。いずれにしてもいかに優秀な参謀を得る、あるいは育てるかは、経営者やリーダーに課された使命とも言えよう。
秀吉にみる理想の参謀像
さまざまな参謀がいるが、名参謀にはどのような資質が求められるのだろう。
数々の歴史小説を手がけ、自らも役人経験を持つ作家童門冬二さんはその著書「将の器 参謀の器」のなかで、秀吉の例を取り上げている。
信長の初期の拠点となった清州城。その城が台風で被害を受け、復旧を進めていたものの、なかなか進まなかった。その様子を見て、信長は前任者に代えその監督を秀吉(当時は木下藤吉郎)に任せた。前任者は「お前に何ができる」と成り上りの秀吉に捨て台詞を残し、去っていった。
秀吉は、まず塀を10に分け、担当をつけた。担当者の組み合わせは自由にさせ、そのなかでもっとも早くできたものに報償を与えるとした。そして作業の前に、なぜ早く塀を直すことが重要かを説いた。当時の工事は農民たちで、塀の修理は自分たちとはあまり関係ないものと捉えていた。秀吉は塀を直すことはこと信長だけの問題ではない。ここがしっかりしないと、いつ他の武将にせめこまれるかわからず、自分の女房や子供が人質にとられたり、殺されたりする危険があると語ったのだ。
農民たちは修理にあたって誰と組むかを考えた。しかし妙案は出ず、結局くじ引きで組み合わせを決めることとなったが、目的や意味を理解した農民たちにより果して、工事はみるみる進捗し、数日かけても直せなかった塀がほぼ1日で直ったという。さらに秀吉はこれを信長に報告し、信長を現場に引出して、農民たちにじかに礼を述べさせたという。秀吉の人心掌握術のたくみさが出ている話だ。
童門さんは、この件について秀吉が、以下の6項目をしっかり把握していたからと分析している。
1) 信長がこれからやろうとしている理念
2) その目的
3) その実現方法
4) 今の織田軍がそれを実現できるかどうか
5) 改革するとすればどこを変えるべきか
6) 変える方法はどういうものが考えられるか
参謀がいかにトップの理念を把握し、それを実現できる環境を現実に合わせて整備できるかということに尽きると言える。
非を諌める苦言を呈する役職「諫議大夫」設置した太宗
参謀はその人の属人的な資質に負うところが多いが、過去には参謀をシステム化して、長期安定政権を作り出した人物もいる。「貞観の治」と呼ぶ300年におよぶ安定した政治を現在の中国で行った唐王朝の二代目皇帝である太宗(李世民)である。
太宗は、自分が皇帝に就くに際し、唐の前の「随」がなぜ短命な王朝であったかを部下に徹底的に調べさせ、報告させた。分析から太宗が見出した結論は、随の皇帝であった煬帝が暴君であったため、官僚たちが面従腹背となり、自分の意見をはっきり述べず、致命的な行いに対して見て見ぬ振りをしたからとした。そこで太宗は側近4人のうち魏徴(ぎちょう)と王珪(おうけい)の2人を「諫議大夫(かんぎたいふ)」に命じた。諫議大夫とは、皇帝に諫言、すなわち非を諌める苦言を呈する役である。とくに魏徴は太宗を恐れず諫言を繰り返して、太宗を支え続けた。その対話は貞観政要としてまとめられ、徳川家康や北条政子も読み耽ったとされる。
その中には、「危ないと思うことがあったら、隠さずに進言してほしい。臣下はこころに引っかかることがあれば言い、君主はそれに対して真摯に耳を傾ける。君主と部下がそのような関係でなければ、国を治めるにあたって大きな害をもたらすことになる」といった内容や、「幼少期から弓をたしなみ、腕に覚えがあり、自分ほど弓取りに秀でた人間はいない」と自慢していた太宗が所有していた弓をある弓工に見せたところ「すべて良弓ではございません」と進言されて自分の自惚れや驕りに気付かされるエピソードなどが載っている。弓工とのエピソードでは、「太宗が理由を問うと『木目がまっすぐではないから、いい弓に見えても、まっすぐに飛びません』と弓工が答え、太宗は『自分は弓でのし上がって天下を取ったのに、弓の節目すらわかっていなかった』と衝撃を受ける。太宗は『よほど国政について勉強しなければならないということがわかった』と語り、以後太宗は官吏たちを交替で宿直させてともに語りながら、民間の実情を知ろうと努力した」と続く。
まさに現代の企業経営におけるガバナンスに通じる話だ。現代社会は誘惑や誤解を招く因子がそこかしこに存在する。個人のすぐれた資質を持つ人間でも万能の神ではない。すぐれた参謀を得ることができないのではあれば、しっかりとしたガバナンスを効かせる仕組みこそ重要になる。
歴史に残る名参謀たちの知恵。学ぶことは多い。