アート・シンキングとネガティブ・ケイパビリティ – 曖昧で不安なコロナ時代を生き抜くための2つの思考法
コロナによって人々の暮らしは一変し、仕事や生き方そのものの捉え方も変えていくことが求められている。コロナ禍に染まる前、世界の関心はVUCAという曖昧で不確か時代が抱える複雑な課題にどう向き合い解決していくかということだったが、コロナはその混迷をさらに深めたとも言える。混迷の時代にその解決方法として注目されているのが、「アート・シンキング」と「ネガティブ・ケイパビリティ」という2つの思考法だ。
目次
- VUCAの時代を生き抜くためにはロジカルシンキングだけでは太刀打ちできない
- 詩人で医師だったジョン・キーツが創出したネガティブ・ケイパビリティとは
- 医師としての従来の「ものの見方」に疑問をいだきネガティブ・ケイパビリティを再発見した精神分析医ビオン
- 人間の「わかりたがる脳」が深層の問題を看過させる
- 答えは質問の不幸であり、好奇心を殺す 性急に答えを出す態度に疑問を持つ
- わかりたがる脳は「絵画や音楽に戸惑う。」絵画や音楽は「わかる」対象ではなく、「感じる」対象
- パラダイムシフトの時代にはアートがその橋渡しをしていた
- いまのアートは、実用アートが抜けた「抜け殻」。 だからこそ触れる意味がある
- 現代アートは「美しいか」ではなく、そもそもの存在、意義を問う だから日常から離れた視点が萎える
- アートをアートたらしめているもの それは「解釈が入るか」
- モーツァルトよりもチャイコフスキーを好む人が、その後見解を変えることがあっても、その逆はない
- 効率第一主義の人は目的と手段の連鎖を繰り返すだけで真のゴールが見えていないのではないか
VUCAの時代を生き抜くためには
ロジカルシンキングだけでは太刀打ちできない
この数年話題となっている言葉にVUCAがある。
VUCAとはV=Volatility( 不安定さ)、U=Uncertainty( 不確かさ)、C=Complexity(複雑さ)、A=Ambiguity(曖昧さ)の頭文字をとったもので、現代社会に横たわる課題や問題が一筋縄では解決できないという状況を表現する言葉として広がっている。
ただ思い返せばバブル経済が崩壊して以降、日本は目標らしい目標を失い、不確かで不安定なまさにVUCAの状態が続いてきたようにも思える。不安や不安定に慣れてしまっているというと言い過ぎかもしれないが、昭和的な護送船団的の時代は徐々に崩れ、組織より個人へ、物から心へといった価値軸の多様化と変化が進み、さらにそれぞれが複雑に絡み合う社会になってきたことは、少なからずの人々が実感しているのではなかろうか。
その間、こうしたVUCA時代の羅針盤づくりのための思考法が生まれ続けてきた。ただどちらかと言えば、先にあるべき姿を設定し、そことのギャップを分解・分析し、そこに至るまでのプロセスを策定し実践する、ロジカルな思考法であり、実践であった。
ロジカルシンキングはその代表であり、それを具現化するために用いられたのがPDCAという実践サイクルだった。P=Plan(計画)から始まるPDCAサイクルは、まさに問題やギャップを確定し、そこを埋める、あるいは目標にどり着くまでの行動プロセスを明快に示し、それを実践し、その結果と目標や想定とのズレを修正していくという作業だった。ただPDCAは、右肩上がりの昭和に馴染んだ思考と実践手法だったと言える。
だがVUCAの時代はこのPDCAを当てはめにくくなっている。
VUCAの時代では、そもそも何が問題なのかも把握できない。問題を把握したとして、どのような状態になれば、解決できたといえるのかもわからない。そんな悩めるVUCA社会に追い打ちをかけたのがまさにコロナだ。感染対策を取りながら経済を回していくという極めてアンビバレントな行動を成り立たせるためには、何をもって成果とするのか、どこの誰をターゲットにどのような行動を進めるべきなのか、その立ち位置によってまったく変わってくる。
そこでクローズアップされてきたのが、「アート・シンキング」と「ネガティブ・ケイパビリティ」である。
詩人で医師だったジョン・キーツが創出した
ネガティブ・ケイパビリティとは
アートシンキング、あるいはアート思考はこの数年話題になり、いくつもの書籍が出ている。書籍だけではなく、実際に美術館や博物館などで社会人やビジネスパーソン向けの講座が開かれていたりする。実際に研修や講座に参加した人もいるだろう。
アートシンキングは、端的に言えば画家や音楽家のような視点や思考法でビジネスを見つめ、その解決策の緒を探ることだ。
一方ネガティブ・ケイパビリティは、あまり聞き慣れない言葉だが、概念として誕生したのは結構古い。ネガティブ・ケイパビリティは18世紀末から19世紀初頭にかけて活躍したイギリスの詩人のジョン・キーツ(1795 〜1821)が創出したコンセプトで、答えの出ない事態に対して耐えうる力、どうにも答えが出ない、どうにも対処しようがない事態に対して耐えうる能力をいう。
まさに先の見えない混沌とした現在に求められる能力と言って過言ではないだろう。
その歴史を簡単に振り返っておこう。
ジョン・キーツはイギリスのロンドン生まれ。父を若くしてなくしており、また母親もアルコール中毒という恵まれない家庭環境のなかで育った。キーツには2人の弟がいたが、3人はアルコール中毒がひどくなると母のもとを離れ、祖母に育てられるようになった。キーツは祖母の計らいで医師の助手として奉公することになり、その後病院などで医学を学び外科医と薬剤師の資格を得ている。キーツは医学生の頃から詩作に傾倒し、解剖実習などの授業を受けながら詩作の発表を続け、画家や編集者との知己を得て、ますます創作に励むようになった。
20歳の時に自分の創作した詩が雑誌に掲載されると、若手の有名詩人の勧めもあって、やがて詩集を出版する。出版した詩集はそれなりの反響をもたらすものの、大きな収入にはつながらず、医学生であるキーツの生活は次第に困窮していく。キーツがネガティブ・ケイパビリティを創出したのはこの頃だった。結局キーツは困窮から抜け出せず、恋人とも結ばれず、残念ながら若くして病に斃れしまった。
このキーツの創出したネガティブ・ケイパビリティとは、「エーテルのような化学物質」で、想像力によって、錬金術のような変容と純化をもたらし、”個別性を打ち消す”というもの。キーツによれば、この個別性を打ち消す能力をひときわ持っているのが詩人であり、創作家であると捉えていた。とりわけこのネガティブ・ケイパビリティを有していたのが、イギリスの文豪シェイクスピアだという。
シェイクスピアは、対象を同一化して、作者がそこに同化していないような境地に立つという感覚に優れており、「不快なものでも霧消させることができる想像力をもっている真の才能の持ち主である」という。
このキーツがこのような概念にたどりつくことができたのは、キーツが医師であったことも大きい。キーツは医学生時代に詩作を始めたが、その紡ぎ出すボキャブラリーを増やすきっかけとなったのも医学の専門知識だった。人の状態や器官を表現する医学用語はキーツを最大の対象である人にさらに向かわせ、感覚を研ぎ澄ませていったのだ。
しかしキーツの創出したネガティブ・ケイパビリティはそのままは広がらなかった。
医師としての従来の「ものの見方」に疑問をいだき
ネガティブ・ケイパビリティを再発見した精神分析医ビオン
ネガティブ・ケイパビリティが再び脚光を浴びたのは、約100年後の同じイギリスの精神医学者であるウィルフレッド・ビオン(1897〜1979)によって再発見されてからだ。
精神分析医であるビオンは、対象である患者との対話について疑問を持っていた。人の内面を細やかに感じ取り、分析すべきである医師は、とかく過去の経験や権威という枠を通じて生身の人間にあたる行為を行っていないかという疑問だった。つまりビオンは医師としての既知の「ものの見方」に疑念を抱いていたのだった。
ビオンは既知のものの見方にとらわれることなく、不思議さ、神秘、疑念を持ち続けて、性急な事実や理由をもとめないということが大事であり、この状態にたどりつくのは、記憶も欲望も理解も捨てて、はじめて辿りつけるのだと主張した。そのために分析者はネガティブ・ケイパビリティを身につける必要があると論じた。
これは非常にインパクトのある主張だった。なぜなら従来の精神分析医学だけでなく、教育全般の前提を否定することだったからだ。
人間の「わかりたがる脳」が深層の問題を看過させる
というのもおよその教育は記憶と理解によって、こうなりたい、ああなりたいという欲望を膨らますものだからだ。「ネガティブ・ケイパビリティ」の著者の作家で精神分析医でもある帚木蓬生さんは、そうさせているのは教育者ではなく、実は人間の脳であると指摘する。
なぜなら、人間の脳は”なんでもわかりたがる存在”だから。目の前にわけのわからないもの、不可思議なもの、嫌なものが放置されると、脳は落ち着かず、及び腰になり、なんとか「わかろう」とするのだという。
この脳のわかろうとする性質を利用し、ドライブさせているのが、ポジティブ思考、ポジティブシンキングである。しかし帚木さんはこれに警鐘を鳴らす。ポジティブ思考が蔓延すると表層の問題のみを捉えて、深層にある本当の問題が浮上しないことになりがちだからだ。
答えは質問の不幸であり、好奇心を殺す
性急に答えを出す態度に疑問を持つ
その究極の1つの形がマニュアル化である。
マニュアルは「何もわからない」状態の新人などの教育には非常に効果をもたらす。できなかったことがスムーズにできるようになり、作業時間が圧倒的に短縮され、生産性が上がる。しかし、一方でマニュアルに慣れきった脳は、マニュアルにないことに遭遇すると途端にパニックに陥り、思考が停止し判断ができなくなったりする。
ビオンは精神分析医学界に存在するいわばマニュアル化された画一的なものの見方に疑問を持ったのだった。
マニュアル化の弊害として帚木さんが挙げた医学界の事例が、胃潰瘍の原因となるピロリ菌の発見だった。ピロリ菌は学会で認められるまでに何度も医師が「見つけていた」。しかし、1950年代に病理学の大御所が1000人以上の胃を調べ、「酸性の胃のなかで生きている細菌は発見できなかった」と発表して以降、「そんな細菌はない」ことが医学界の事実となってしまった。だがその後2人のオーストラリアの医師が1987年に人の胃袋から螺旋状の細菌、ピロリ菌を発見し、その事実が否定された。大御所の発表以降もそういった現象があったはずなのに、それを人工産物とみなして、その事実から遠ざけたことがその発見を遅らせたと容易に推測できるという。つまり、性急にわかりたがる脳がそれ以上の追究を停止させたのである。
現代社会を動かす専門家や優れたエリートは、このわかりたがる脳の特性を生かし、マニュアル化によって迅速な対応、ときに拙速な対応をし続けてきた人々である。だがVUCAの時代にあっては、誤判断や間違いを起こしやすい状態にあるということでもある。
VUCAの時代には、「拙速な理解ではなく、謎を謎として興味を抱いたまま、宙ぶらりんのどうしようもない状態を耐え抜く」ネガティブ・ケイパビリティが必要なのだ。
このネガティブ・ケイパビリティを涵養するには、まず答えを出そうという態度そのものを疑う必要がある。
前出のビオンは「答えは好奇心を殺す」と表現して、警鐘を鳴らした。また作家で精神科医のモーリス・ブランショは、「答えは質問の不幸である」という過激な言葉を残している。
ではネガティブ・ケイパビリティが自分のなかに宿り、広がっていくとどうなるのか。共感の感度が上がっていくのだ。
すでに多くの識者が指摘するように、VUCAの時代に大切なことは共感力だと言われる。そしてその共感力を育むのが絵画や音楽であるというのだ。
わかりたがる脳は「絵画や音楽に戸惑う。」
絵画や音楽は「わかる」対象ではなく、「感じる」対象
なぜなら、「わかりたがる脳は、絵画や音楽に戸惑う」からだ。絵画や音楽は「わかる」ものではない。「感じる」対象だ。人々がそれぞれ持つ感じる力を共有し、高めていくことで「何が問題か」という像が浮かび上がり、解決すべき方向感が定まり、その解決レベルが共有される。そのためにキースのいう個別性を打ち消し、ありのままを見て感じることが重要になってくる。
もし感じることができないのであれば、何度もさまざまな絵画体験、音楽体験を繰り返せばいい。アート体験は繰り返せば感度があがっていくものだからだ。
闇のなかで宙ぶらりん状態にあっても、一筋の光を見出し、自己を客観化して、より最適な問題解決方法を探り出していく。闇の先には発展的な深い理解が待ち受けていると確信して、耐えていく持続力が身につくのである。まさにコロナ禍のなかで模索する人類に必要なケイパビリティ(能力)と言える。
では、その「わかりたがる脳」を「感じる脳」に変化させるアート思考はどういう思考なのか。どう取り入れていけばいいのだろうか。
その前にアートがなぜ現代に重要になっているのだろうか。
東京大学で美術を教えている東京大学文学部教授の三浦俊彦さんによれば、それはアートは現実世界から遠い存在だからという。
パラダイムシフトの時代には
アートがその橋渡しをしていた
VUCAの課題解決にはこれまでの延長にない現実から離れた発想が必要となる。よく産業界やビジネスシーンにおいて、「イノベーションを起こせ」「パラダイムシフトを起こせ」といった声が聞こえるが、「地に足をつけた議論」だけでは、こうしたイノベーションやパラダイムシフトは起こせない。
三浦さんによれば、いま時代が改善期から革命期に移っているという。歴史を振り返ると過去にも大きなパラダイムシフトが何度もあったが、そのタイミングでアートが重要な役割を果たしてきたのだと述べる。
ものごとがうまくいっている時代には、それまでの常識を疑わずに改善を続けるほうが効率がいい。しかし、現在のようにこれまでにない問題が生まれる混迷期には、大きなパラダイムシフトが求められる。その思考の橋渡しをするのがアートなのだ。
世間的にはデザイン思考という言葉も広がっている。デザインとアートは親しい存在で、いずれも芸術大学の専攻科目に入っている。ただ2つの関係は、並立ではなくアートがデザインを包含する。
いまのアートは、実用アートが抜けた「抜け殻」。
だからこそ触れる意味がある
デザインはアートを構成する一部であり、より実用に即した「応用芸術」、すなわちApplied Artである。これに対してアートはFineArt、つまり純粋アートと称される。実用性の有無は問われないのだ。実はアートは、その歴史のなかでデザインのほかにも建築やマンガ、映画などさまざまなAppliedArtを生んできた。
三浦さんは、現在のアートはこうしたさまざまな応用芸術が抜けていった「抜け殻」なのだという。だからと言って意味がないというのではない。逆だ。
つまり、現在のアートはまだ名称化されないカテゴライズされない分野の思考法であり表現方法であるということだ。これは哲学も同じだ。
哲学はその歴史のなかで数学や物理学や天文学といったさまざまな学問が分化していった。現在の哲学はその残骸であり、まだ名前もつけることができない謎なものが「哲学」として残っているのである。いわば現代の哲学は新たな学問や思考法を生み出す思考の培養液なのである。
アートも同じだ。実用的なものとして分化していったデザインや建築とかマンガはFine Artよりわかりやすい。このためアートには「ハイアート」と「ローアート」という分け方がある。
ハイアートは、単純に言えば、「わかりにくい」アート。ローアートはわかりやすいアートのこと。例えば文学では直木賞の対象になる「大衆文学」はローアートで、芥川賞の対象になる「純文学」はハイアートというように分けることができる。最も近年はその区別もなくなってきたが……。
ローアートは「よりわかりやすい」特徴を持つため、市場原理が働きやすい。絵画でも色彩が鮮やかでわかりやすい印象派などの絵が高値で取引されるのはそういった理由がある。
しかしこれが現代アートとなると事情が違ってくる。絵画であれば、キャンバスに絵の具を使って描くものだけではなくなってくるからだ。絵の具をぶつけて表現したジャクソン・ポロックや、キャンバスにカッターで切れ目を数本入れただけで作品としたルーチョ・フォンタナなどもいる。画材を使わず、美術館やアトリエから外れて、自然のなかに石を並べて創作した作品もある。
現代アートは「美しいか」ではなく、そもそもの存在、意義を問う
だから日常から離れた視点が萎える
現代アートの作品を見たり、体験した人のなかにはどこがいいのかわからない人も多いだろう。実は現代アートの役割は、「美しいか」という基準を越えて、その存在や作品の意義を問うものになっている。例えば建築家が設計する家は、通常「人間にとって快適な家は何か」を軸に設計する。だがこれをアーチストが設計すると「家とは何か」を問うような建物になる。
球体のような形にこだわる場合もあるだろうし、鉄や土など材料にこだわったりするだろう。全面ガラス張りのスケルトンで家を設計するかもしれない。住みやすさ、人間的なことは二の次になってしまう。
この実用性を離れて、「そもそも、それは何か」を問うのが現代アートなのだ。アート思考が注目される一因には、この「そもそも」を問う姿勢があるからだ。そもそもを問うにはできるだけその物がある場、前提としている日常から離れることが必要となる。つまりアートは人間の思考、ものの見方、捉え方を日常から遠ざけてくれるのだ。
アートをアートたらしめているもの
それは「解釈が入るか」
そのアートにはどのようなものがあるのだろう。
一般にアートは人間の感覚に対応する3つのアート分野がある。
1つが視覚に対応する「視覚芸術」。いわゆる美術で、絵画や版画、彫刻、写真、書などが入る。2つ目が文学、詩などの「言語芸術」。3つ目が「音楽芸術」である。
アートは人間の感覚に対応するが、触覚芸術、嗅覚芸術、味覚芸術という分野はない。こういった「直接的に体に影響するもの」はいまのところ芸術の対象とならない。なぜか。それは「解釈が入らない」からだ。極上の料理には「料理というよりアート」という賛辞が送られることがあったりするが、あくまで喩えの域を出ない。こうしたうまい、辛い、甘いといった感覚はあくまでダイレクトに脳につながるため解釈が入り込まないのが理由だ。
アートにはそれぞれ評論家がいる。それぞれその解釈のための論理構造を理解している人たちだ。とくに現代美術においては評論家の存在は重要で、評論家の言辞で作品の価値が一変する場合もあるし、後々評価が変わる場合もある。
有名な例がマルセル・デュシャンが1917年にアメリカのアンデパンダン展に出品した「泉」という作品だ。泉は市販の便器を持ち込んでそこにデュシャンのサインを書いただけのものだ。アンデパンダンは英語ではインデペンデント、すなわち独立を意味するフランス語で権威を否定する自由な発表の場として催されていたが、デュシャンはそのアンデパンダンの限界を突破すべくこの泉を持ち込んだのだった。案の定、デュシャンの泉は展示されなかった。
そこでデュシャンは一計を案じ、雑誌にその経緯を投稿し、「権威から切り離されたアンデパンダン展で、主催者の独断で作品を撤去するとは何事であるか」と批難した。実はデュシャンは確信犯で、ここまでのシナリオをつくっていた。というのもデュシャンは無名の新進の作家ではなく、名の通った作家であった。そのためアンデパンダン展には偽名で作品を持ち込んだのである。
残念ながらこの自作自演がわかり、デュシャンの作品はその後キワモノ扱いを受けることになるが、1960年代になるとコンセプチャルアートが台頭、「新しいアートの地平を拓いたランドマークである」とデュシャンの泉は俄然評価を受けたのだった。
これは現代アートに限ったことではない。ルネサンスやロマン主義、新古典主義などの過去の名画、名作と呼ばれる作品の評価が変わることもある。
文学においても当然評論家の役割は重要だ。
よく文学作品が受験問題などに使われ、書いた本人が問題を解けなかったという笑い話のような逸話が出てくるが、前出の三浦さんによれば、これはあって然るべきことなのだという。つまり文学作品には文芸評論という分野が確立しており、そういった評論家が作家自身が気づかなかったことを分析、抽出することが往々にしてあるからだ。
先に述べた料理についても、いまのところアートの分野としては確立されていないが、的確な料理評論家が増えていけば、アートとして確立する可能性はある。
モーツァルトよりもチャイコフスキーを好む人が、
その後見解を変えることがあっても、その逆はない
もちろん一般人は、こうした芸術作品に向き合う際には、評論家のような知識は必要はない。まずは「感じる」ことが大事だ。
ただしこの際留意しなければならないのが、作品を鑑賞することと、解釈することを区別しておくことだ。
鑑賞も解釈も万人ができる。ただ上述の通り、時代に即した解釈は専門の評論家がつくっている。もちろん自分なりの解釈はできるが、評論家が定めている一定の解釈から外れたことを言っても共感は得られにくい。
例えば、現代のクラッシク音楽の作曲家や評論家が、最高の作曲家として真っ先に挙げるのはベートーヴェンで、これは揺るがない。個々の好き嫌いはあるが、作品の内容を分析すればベートーヴェンで一致する。
このプロの感覚について、アメリカの美学者のモンロー・ビアズリーはこんな喩えで表現している。「モーツァルトよりもチャイコフスキーを好む人が、その後見解を変えることはある。だがその逆はない」
最初は「好き」「嫌い」から入っても、先に述べたように芸術作品は触れれば触れるほど感度が上がり、よりレベルの高いハイアートの微差がわかるようになる。それはまさに、芸術作品に触れ続けることで、次第に好き嫌いを超え、まさにキースのいう「個別性を打ち消し、ありのままを見て感じる」ネガティブ・ケイパビリティの真髄に近づくことを意味する。
効率第一主義の人は目的と手段の連鎖を繰り返すだけで
真のゴールが見えていないのではないか
アートに触れることは、とかく既存のパラダイムやフレームになぞらえて軽々に判断しがちな現代人に、多様な視点を与え、育ててくれる。VUCAの時代に求められるのは、答えまでの最短距離の道を探るドライブ方法ではなく、ときに地図にさえ載っていない道を地形や樹木帯、生物相などを理解しながら別ルートを拓いていくことだ。
当然、リスクも伴うし、足止めを喰らうこともある。それどころか、後退を余儀なくされることもあるだろう。だからこそ知恵を絞り、さまざまなアプローチ方法を考え、さまざまな道具を揃える必要がある。
アートに触れる、とくにハイアートに触れることで視野が広がり、多様な視点を身につけることができ、さまざまなことに対応できる引き出しを増やすことが可能となる。そうして身についた視点や引き出しは、自分が自覚しないうちに発揮されることがある。
遺伝学の世界でいう「多面発現」である。これはある面で発揮される思考法や思考の癖が、生活の分野で発揮されることをいう。
例えば犬を飼うという行為だ。現代社会では、一般人は猟などを行わないので、犬を飼っておく必要はない。しかし、犬をペットとして飼う人は多い。これはもともと子どもを守るという人間の本能が犬に向いたと考えられている。
アートに触れ続けることで、自分の思考や得意なことが、これまでにない分野で発揮できる可能性もある。
いまはコロナでなかなか美術館やコンサートホールなどに足が向きにくいが、YouTubeなどでは、有名絵画作品や演奏の動画がいくつもあがっている。こうしたところでアートに触れることもいいだろう。
著名な芸術家の作品であれば、まずその芸術家や作品の定まっている評価を知った上で、何かを感じ取り、自分なりの評価や解釈をしてみるといい。さまざまな気づきが得られるはずだ。
もとよりアートと向き合うことは時間を要する。三浦さんは「むしろ即効性がないからいい」と話す。効率第一主義の世の中では、より速く大きな成果が求められる。しかし三浦さんはこうした効率第一主義で結果を残す人たちは、「手段と目的の連鎖を繰り返すだけで、真のゴールが見えなくなっているのではないか」と指摘する。企業人として、組織人としてならそれもいいのかもしれないが、果たしてそこに人としての人生はあるのかと問う。
人生の喜びや多様性を感じ取れる人が多い会社、組織のほうがより多くの社会の問題を汲み取り、よりよい解決法を見いだせるに違いない。
少しずつ、芸術に触れる時間を増やそう。
きっとコロナが明けた頃には、一皮も二皮も剥けた共感力の高い自分に出会うかもしれない。そんなニューノーマルな人がたくさんいる組織が、ポストコロナを生き抜き、これからの時代を切り拓いていくと信じたい。