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野球を面白くするのは大谷翔平か、セイバーメトリクスか― データと数式で変わるスポーツビジネス

 暗い話が十重二十重に覆うこの世界で、たった一人の男の活躍にどれほど多くの人が励まされ、救われているだろうか。
 そう、アメリカの二刀流メジャーリーガー、エンゼルスの大谷翔平選手のことである。彼のまさに一挙手一投足に、野球のルールをよく知らない人でも思わず快哉をあげているに違いない。

「異星人」大谷翔平選手が活躍する
アメリカメジャーリーグという世界

 大谷選手は日本人だけでなく、野球の本場、アメリカの人々をも熱狂させている。二刀流の元祖とされる野球、すなわちベースボールの神様、ベーブ・ルースの記録を塗り替えているからだ。その快進撃はアメリカのベースボール通を「異星人」とまで言わしめている。
 ベースボールが彼の地で誕生したのがおよそ190年前。神様ルースが活躍したのが1914年から35年。およそ100年前に打ち立てた記録を大谷選手は塗り替えた。
 だが、100年前のベースボールと現在のベースボールは違っている。守備につくのは9人で、そこに攻撃の打者が3つのストライクと4つのボールまで、1人ずつバッターボックスに立ち続けてボールを打ち返すことができることも、打者3人がアウトになるまで攻撃を続けられることも、変わっていない。投手が球を投げるプレートからホームベースまでの距離も同じだ。
 だがそのホームベースの上を通過する球の種類は増えている。呼び方の個人差もあるが、現在の球数は15種から20種ほどあるとされる。
 もちろん1人の投手がすべての球種を投げ分けられるわけではない。エースと呼ばれる投手でせいぜい7種か8種である。だが投手が9回すべてを投げ切ることはまずない。試合では数人の投手が入れ代わり立ち代わり、得意の決め球で打者に向かってくる。
 球種が増えれば打者はそれに対応する技術が求められる。幸いなことにいまはビデオ機器やコンピュータ技術が進んで、投手がどんな動作からどんな球種をどのタイミングで投げ、その球がどんな軌道で、秒あたりいくらの回転数で、秒速何メートル、どのくらいの変化量で、ストライクゾーンのどの位置、あるいはどのくらい離れた位置でキャッチャーのミットに収まるかを、映像で解析できるようになっている。
 打率の高い打者はこうしたデータや映像を頭に叩き込んでから、バッターボックスに立つ。バッテリーと呼ばれる投手と捕手が組み上げた配球を予想しながら、自分が最も打ちやすい球に狙いを絞ってヒットからホームランを放とうとする。あるいは四球を選択して塁に出る率を高めていく。
 当然、投手側も打者の分析を怠ってはいない。その打者がどのような球種やどのコースを苦手とするかをつぶさに把握し、マウンドに立つ。
 従来は打者も投手もこうした分析・予測を自身の経験則から導き出していた。あるいは先輩やコーチの経験則を参考にしていた。
 近年はこうした打者や投手の能力や癖の分析をコンピュータやAIが行うようになってきた。個人の感覚に頼っていた部分をAIが数字や形に変えて可視化できるようになり、そこに対する効果的な対策を打てるようになってきた。いわゆるデータサイエンスである。
 いまや野球やサッカー、ラグビーなどプロと呼ばれるスポーツで、データサイエンスやITの専門家を置かない球団はまずない。専属のデータアナリスト、システムエンジニアもさることながら、プロ球団に向けた分析ソフトやシステムを開発している企業や事業者も増えている。こうしたプロ球団に使われているシステムやソフトは、いまや小学生のアマチュアチームにも使われている。

野球未経験者が編み出した
プロ野球の評価法「セイバーメトリクス」

 今後、プロスポーツ選手はAIネイティブ、データネイティブが中心となり、彼ら彼女らを抱えるチームや球団は、データサイエンスやAIアナリティクスの専門知識なしでは成り立たなくなる。
 プロスポーツにおけるデータサイエンスというと、この数年急に話題になったようだが、その萌芽は1970年代からあった。
 プロ野球における「セイバーメトリクス(SABRmetrics, Sabermetrics)」と呼ばれる統計分析法がそれである。SABRとはアメリカ野球学会を表すSociety for American Baseballの略称で、metricsは日本語では測定基準や尺度と訳される。
 SABRは1971年に設立されている。野球を研究する者であれば、誰でも会費を払えば入会できるオープンな組織で、会員は世界中に約7000名がいる。会員は野球の歴史や技術など様々な研究や調査を続けながら、年1回開催される総会でその成果を発表したり、質疑応答ができる。また個々の研究や調査については年2回発行される研究論文集「ベースボール・リサーチ・ジャーナル」にまとめられ、発行される。
 セイバーメトリクスの源流は1960年代からいくつか現れていたが、明確に確立されたのは、SABRの会員である野球史研究家で野球ライターであるビル・ジェームスが1977年に自費出版した『ベースボール・アブストラクト』である。
 当初はマニアック過ぎ、かつジェームス自身は野球経験がなかったことから、普及するとは思われなかったが、ジェームスが毎年のように理論を発表していくなかで、徐々に広まっていった。
 ジェームズの理論が浸透していったのは、世の中にパーソナルコンピュータが普及してきたことが大きい。誰でも計算式に実際の数字を打ち込むだけで、チームの戦力が分析できるようになったからだ。

映画「マネーボール」の原作となった
アスレチックスの快進撃

 決定的だったのは2000年代に資金力の乏しいオークランド・アスレチックスのGMビリー・ビーンがセイバーメトリクスを導入し、リーグ初の20連勝を実現するなど結果を残したからだ。このアスレチックスの奇跡は、その後2011年にブラッド・ピット主演の映画「マネーボール」として映像化され、日本でも大きな話題となった。
 データ重視の野球と聞くと元ヤクルト・スワローズ監督の故野村克也さんの打ち出したID野球が知られるが、「セイバーメトリクス入門」の蛭川皓平さんによれば、野村さんのID野球は「野村克也監督の野球観や配球論が前提にあり、それを実践するために詳細なデータを利用するもの」で、対してセイバーメトリクスは「そのような経験則に基づく理論がそもそも有効かという視点で考えるものであり、方向性は根本的に異なる」としている。
 蛭川さんはセイバーメトリクス思考の3原則として次の3つを掲げている。

①従来の常識に縛られず、図式を根本から捉え直す
②主観に頼らず、客観的な事実に基づいて考える
③定量的に考える

 主観・経験則を排除して、純粋にデータと理論から組み上げた分析と施策がセイバーメトリクスだと言える。

プロ野球の4番打者には意味はない?

 このため長年常識とされていた評価軸から大きくハズレたり、評価そのものが否定されることも多い。
 たとえば打順だ。打者で4番と言えば、そのチームの主軸打者であり、チームでトップクラスの年俸をもらう選手であることが多い。日常会話でも営業成績が良い社員を「うちの会社の4番打者」といって表現したりするほど、馴染んでいる。4番打者は、打率、打点、ホームラン数がチームでトップ、もしくはトップに準ずる成績を残すことが求められ、リーグトップとなれば、三冠王としてその名が野球史に刻まれる。
 しかし、セイバーメトリクスの理論では、打順は「得点創出能力の高い選手から順番に並べる」ことが基本だ。したがって現在言われる4番打者は、本来1番に据え、次に得点を生み出す可能性が高い選手を2番、その次を3番と並べることがより高い得点を生み出せることに繋がる。
 これはシーズンを通じて1番打者に最も打席が回ってくることによる。統計的に1番が年間650打席立つとすれば、2番は635打席と打順が1番下がると年間で15打席減ることになる。加重出塁率0.400以上のトップクラスの選手であればこれでほぼ1点が失われる計算となる。仮にこのクラスの選手を4番で使っていたら、3点が失われることになる。
 しかしながら、セイバーメトリクスは基礎データを理論的に配した場合の考え方で、実際にはほかのファクターが絡んでくる。つまりランナーを貯めて回すことで3点以上の点数が得られるのであれば、例外的な配置が認められる。
 そこでどの打順が適正かを、打者9人の特性を踏まえてシミュレーションをかけてみる。たとえば打者の田中は単打を14%、四球を9%、二塁打を4%、打者の小林が単打15%、二塁打を6%、本塁打を3%、四球を8%というようにプロファイルを設定して当てはめていき、野球ゲームで試合をさせ、どのような打順で得点が高くなるかを探っていく。
 するとこうした結果、一般的には強打者の順番に応じて1番から順に置くことが良いが、チーム最強打者は2番に置くと効果的であることが分かっている。さらに大きなことは、こうした打順の入れ替えによる年間の得点の変化は大きなものではない、ということだ。
 つまり、監督が打順に悩んで2番を5番に下げるより、打席に立つ人間そのものを変えるほうがより影響が出るということだ。

優れた打者の指標「wOBA=加重出塁率」

 ちなみに前述した「加重出塁率」とは、アウトがゼロの前提で安打や四球を含めて出塁した割合を表す数字でメジャーリーグでは「wOBA」と表記される。平均的な加重出塁率は0.330で0.4を超えていれば、球界を代表する選手と言える。2019年のセントラル・リーグでのオーバー0.400のwOBA選手は、0.446の鈴木誠也(当時広島)、0.424の坂本勇人(巨人)、0.418の山田哲人(ヤクルト)、0.400のバレンティン(当時ヤクルト)の4人。パシフィック・リーグでは、0.422のグラシアル(ソフトバンク)、0.419の森友哉(西武)、0.418の吉田正尚(オリックス)、0.409のブラッシュ(当時楽天)、0.401の山川穂高(西武)の5人だけである。
 wOBAは、セイバーメトリクスではチームを勝利に導く上で極めて重要な数字だ。セイバーメトリクスでは得点を生み出すことを最重要視しているからだ。チームが得点を生み出さなければ、勝利はない。この得点を生み出す力を示す指標がRC(Runs Created)、すなわち「創出された得点」である。
 RCは次の式から導かれる。

RC=(安打+四球)× 塁打※÷(打数+四球)
※塁打は、1×単打+2×二塁打+ 3×三塁打+ 4×本塁打

 つまり、打数が多く、長打を放ち、四球を選ぶ選手が多ければそのチームの勝率は上がっていく。このあたりの計算式はおよその人が納得できるものだろう。
 メジャーリーグのエンゼルスの試合では、大谷選手がバッターボックスに入るとOPSという数字が現れることがある。OPSとは、出塁率と長打率足し合わせた数字で、これが高まれば高まるほど得点は増える。それゆえメジャーリーグのほか日本のプロ野球でも重視されはじめている。
 ただOPSは、打者のランキングはできるものの、実際に何得点入れて貢献したのかがわからない。得点貢献度ではwOBAと得点との関連性が高く、打者の評価はこちらのほうが有意義ではないかという声も多い。
 セイバーメトリクスがそれまでの”データっぽい”分析と一線を画しているのは、守備の評価をレンジファクター(RF)という式で実現していることだ。
 RFは、野手がアウトを多く取れば取るほど高く評価される指標で、次の式で表される。

RF=9×(刺殺+捕殺)/イニング

 9回の守備のなかで、いかに野手が打者が打った球を捕殺し、ランナーをアウトにしていくかの数字だ。
 守備はもちろん投手の能力、その時のコンディションの影響も大きい。投手が常に三振を取り続ければ、打球はフィールドのなかに向かってこない。
 逆に打たれても野手がすべて捕殺していれば、点は入らない。前者は圧倒的に投手の力量だが、後者になると投手の責任範囲となるかは判断が分かれるところだ。仮に15勝する投手がいたとして、それはすべて投手の実力なのかはわからない。
 こうした流れのなかで、セイバーメトリクスでは投手の評価を被本塁打、奪三振、与四死球から行うという式が現れている。FIPと呼ばれる指標で被本塁打、奪三振、与四死球に係数をかけてインプレー率が平均とした場合の防御率を出す計算式だ。

FIP= (13×被本塁打+3 ×(与四球−故意四球+与死球)―2×奪三振)÷ 投球回数 +3

 13や3といった数字は得点価値を元にして導かれたFIP独自の係数だ。
 FIPは基本的に防御率なので、これの値が小さい投手が優れた投手で勝利に貢献している選手ということになる。
 もう1つ投手には「打たせて取る」という評価がある。老練な投手だと決して目の覚めるような剛速球のストレートや切れのいいスライダーなどではないものの、詰まった打球にして内野ゴロを量産させるケースをよく見かける。
 しかしセイバーメトリクスの評価では「打たせて取るピッチング」は存在しないとなっている。これは、ボロス・マクラッケンという人物が発表した論文で、インプレー打率(本塁打以外の打率)を追っていった結果、ほとんどの選手がランダムな率となったことによる。これには反論が多く出たが、検証の結果同様の数字が上がっていったため、反論者は減っていった。しかしながら、打たせて取るピッチングに投手の投球術が一切関係ないということは考えにくいとし、トム・タンゴ、アーヴィン・シュウ、エリック・アレンらが共同研究を行い、メジャーリーグの先発投手のそれぞれ700のボールインプレイを分析、その結果、次のような影響率を割り出した。

運=44%、投球=28%、守備=17%、球場=11%

 「運」が半分近くとはセイバーメトリクスの本分からはかけ離れている気もするが、この部分はいまなおさまざまな野球マニアが調査分析中であり、さらにAIやセンサーなどが新たなフォーミュラを生み出す可能性は高い。

 ほかにもセイバーメトリクスは、従来の野球評価を変える指標を生み出してきた。たとえば送りバントだ。送りバントは確実性が高い技術であり、成功率は高い。セイバーメトリクスではこの送りバントの評価を、無死1塁から1死1・2塁にいたる条件別に、送りバント前後の得点期待値の比較で出している。するとすべての条件で送りバントを成功した後は、得点期待値が下がっていたのである。
 ただ9回裏など、1点を取るだけで勝てるという条件で、「1点を取る確率」を各塁にランナーがいる、いないという条件で分析すると、「無死2塁」と「無死1・2塁」の場合のみ得点確率がわずかながら上がっている。
 つまり、送りバントは限定された条件のなかでのみ活用する策なのである。

 このほかセイバーメトリクスではさまざまな指標が生まれている。いくつか挙げておこう。

◆得点期待値
 特定の走者・アウト状況から、そのイニングが終わるまでに少なくとも1点が記録される確率。1点のみを問題にする分析では得点期待値ではなく、得点確率が用いられる。

◆得点価値
 ある事象がもたらす平均的な得点期待値の変動。単打の得点価値が0.44点である場合、単打を打つことによって得点の見込みが一般的に0.44点高まることを意味する。言い方を変えればその事象の得点の意味での価値である。

◆勝率付加価値(WPA)
 各選手の「プレー後の勝利確率―プレイ前の勝利確率」の合計。選手がもたらした勝利確率の増減を集計した値。平均的な選手で0となり、プラスであればそれだけチームの勝利の見込みを高めるプレーをしたという評価となる。

◆創出得点(wRC)
 得点打撃得点+リーグ総得点÷リーグ総打席 × 打席
 打者が生み出した総得点を表す指標。RCと同じ意味。

◆パークファクター
 本拠地球場での試合あたり得点+失点
 地球場での試合あたり得点+失点
 ある球場が同じリーグの平均的な球場に比べて、どれだけ得点が入りやすいかを表す指標。

◆守備得点(UZR / DRS)
 同じ出場機会を、同じ守備位置のリーグの平均的な野手が守る場合に比べて、防いだ失点数を表す指標。UZRとDRSは厳密には異なる指標だが、基本思想は共通しており、野球の類型別に平均的なアウトの見込みを計算して、それに対する±で野手を評価する。

◆勝利貢献値(WAR)
 同じ出場機会を代替可能水準(控えレベル)の選手が出場する場合に比べて、どれだけチームの勝利数を増やしたか。走攻守総合して評価される点、比較基準が平均ではなく代替可能水準である点、単位が得点数ではなく勝利数である点が特徴。

 野球の世界を知らない人にとってはマニアック過ぎて「何のこっちゃ」と疑問符がいくつも頭のなかに浮かぶかもしれない。
 言いたいことはデータを扱える人材が組織のなかにいないと、適切な戦略は打てない時代になっているということ―そんな当たり前のことではない。
 会社や組織は誰のものであるか、という問いである。いま起こっている野球のデータ革命は、野球会の内側から起こったものではなく、外側から起こっていることだ。しかも従来「専門家」と称される人たちではなく、素人が独自視点で、どこにでもあるデータや情報を組み合わせて「面白いことを生み出そう」と熱中した結果だ。証明できるものがあれば、道は少しずつ拓かれていく。
 そう大谷選手が挑戦して証明し続けている「できない、ありえない」と言われた二刀流しかり。
 問いを立てよう。「それは本当か?」「なぜできないと思うのか?」「もっと面白くできないか?」と。

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