天才作曲家ヴィヴァルディを支えた世界初の女性楽団「フィーリエ・デル・コーロ」
4月。各地で桜の花の舞う季節となった。コロナ禍のなか、花見酒とはいかないが、桜をはじめさまざまな花が咲くこの季節は、自然と心が踊る。
クラシック音楽ファンであれば、この時期はヴィヴァルディの代表曲「四季」の「春」の音階を想起する人もいるだろう。
ヴィヴァルディはバロック時代を代表するイタリアの音楽家で、バッハをはじめ、同時代、後世の作曲家、音楽家に多大な影響を残している。
彼が生涯に残した作品は600以上と言われ、かなりの多作家であった。さらに作曲だけでなく、楽器の新しい演奏法や新たな楽器まで生み出していた。彼の旺盛なクリエイティビティは、もちろん彼の情熱から湧き上がったものだが、もうひとつ彼を支えた女性演奏家集団の存在が大きかった─。
目次
バロック音楽の中心地
「ベネチア」
西洋音楽の歴史に、バロックと呼ぶ新しい音楽の息吹が台頭したのは1600年頃。劇音楽というスタイルが確立し、本格的な器楽演奏が生まれ、オーケストラの基礎が築かれ、後の歌劇、交響曲、そして作曲家、演奏家に多大な影響を与えた。
中心となったのは17世紀時代のベネチアだった。
アドリア海に面したこの共和国は、地中海の貿易を独占し「アドリア海の女王」と言われ、ナポレオンの侵攻を受けるまで、1000年続いた。
当時はイギリスで生まれた「グランドツアー」がヨーロッパに広がっていった時代。グランドツアーとは貴族や富豪の子弟が将来、社会を担うべき人物のための学業の仕上げとして、ヨーロッパ大陸を旅することであった。風光明媚な水都ベネチアはその最終目的地の1つであり、ヨーロパ中から貴族の子弟をはじめ、有閑階級の観光客が集まってきた。その観光客のお目当ての一つとなったのがヴィヴァルディの協奏曲を聞くことだった。
当時のベネチアは、ベネチア楽派と呼ぶ集団を形成する音楽の都でもあった。
生涯で600以上の作品を残した
作曲家ヴィヴァルディ
父親が理髪師でバイオリニストだったヴィヴァルディは、幼少からバイオリンを演奏していた。10歳で教会付属の音楽学校に入ってからは、バイオリニストとして、聖職者としての道を歩み、13歳で父親に代わって演奏を始めた。彼は本来は司祭として活躍するはずだったが、体が弱かったこともあり、音楽家としての人生に軸足をおいた。もちろん演奏家として恵まれていたが、その才能は作曲家として、より発揮された。
ヴィヴァルディは作曲家としてはかなり多作で、生涯で600以上の協奏曲を生み、さらに50以上のオペラを生み出しており、ほかにもまだ発見されていない楽譜があるとも言われている。
ヴィヴァルディは多作の作曲家としてだけでなく、器楽演奏の世界に革命を起こしている。ビルトゥオーソと呼ばれる優れた技術を持つ楽器演奏家とオーケストラから成る独奏協奏曲を確立させ、そのためにあらたな楽器もつくった。また自らバイオリニストであるヴィヴァルディは、新たな運指法や運弓法も生み出している。
彼は同時代の作曲家にも大きな影響を与え、たとえば現在のドイツにいたバッハは、ヴィヴァルディの楽譜を手に入れ編曲をして自作品を作っている。
つまり、ヴィヴァルディはバロック時代の頂点にいたのだ。まぎれもなく天才だった。それにしてもなぜ彼はこれほどの楽曲を量産し、新楽器を生み、楽曲の新ジャンルを確立させて新たな演奏法を生むことができたのか─。
ヴィヴァルディのクリエイティビティを
刺激した「聖歌隊の娘たち」
それはヴィヴァルディには、そのクリエイティビティを支える女性演奏家集団がいたからだった。彼女たちは「フィーリエ・デル・コーロ」、”聖歌隊の娘たち” と呼ばれた。
音楽学者のマルク・パンシャルルによれば、彼女たちのお陰で「ヴィヴァルディは無尽蔵の材料がある音楽実験室を自由に使える状態」だったという。
実際、さまざまな楽器が開発されていた。チェンバロに似た「スピネット」という楽器や外側に皮が張られたフルートに似た木製楽器「ツィンク」、チェロをまっすぐ立てたような「ビオラ・ダ・ガンバ」などが開発され、改良されていた。ほかにもクラリネットの原型となるような木管楽器の「シャリュモー」、木箱に張られた24本のピアノ線を弓で弾く「プサルタリー」、首にかけて演奏する小型のチェロ「ヴィオロンチェロ・アッリングレーゼ」などが開発され、聖歌隊の娘たちは巧みにこれらを弾きこなしていた。楽器だけでなく、歌声も素晴らしかった。
楽器を演奏するのは男性という時代に
生まれた女性演奏家手段
フィーリエの演奏は音楽に革命を起こしたが、最初はその巧みな演奏技術ではなく、好奇の”耳”が勝っていた。当時、楽器を演奏するのは、ベネチア以外では男性だけだったからだ。だから、フィーリエの演奏を聴いたなかには、露骨に「少女たちがコントラバスを弾き、オーボエに息を吹き込むのを見るのはあまり楽しいものではない」と語る人もいた。だが多くの聴衆は、戸惑い、驚き、魅了されていった。「彼女たちは天使のように歌い、バイオリンやオルガン、フルート、チェロ、オーボエ、バスーン、ファゴットを演奏する。つまりどんな大きな楽器でも恐れないということだ」とその演奏の巧みさとチャレンジ精神を賛美する者もいた。
多くは素直に「この音楽の天才たちに会えるのはベネチアだけだ」とか「聴衆のために天国への扉を開け放つ」と感情の高ぶりのままに表現した。
演奏の姿が見えない
「美しい天使たち」
彼女たちが、聴衆を魅了したのには、もう1つ理由があった。演奏する姿をしっかり見ることができなかったからだ。彼女たちの演奏は、バルコニーの鉄格子にかけられた薄い布を通して「影絵のように動く」姿でしか見ることができなかった。後にフランス革命の思想的な礎となったジャン・ジャック・ルソーもフィーリエの演奏に魅入られた一人で、フランスから2回、足を運んでいるが、1度目は「ひどく落胆した」と感想を述べている。彼女たちの姿が見えなかったからだ。ルソーは「鉄格子が、美しい天使たちを私から隠していた」と記していた。
“美しい天使たち” が見えないため、聴衆の妄想はどんどん膨張していった。
あるイギリスからの旅行者は「その演奏はまったくもって見事なものである。彼女たちの多くは素晴らしい声に恵まれているし、またこのように姿が見えないために、すべてはよけいに魅力的なのである」と述べている。
慈善院「ピエタ」の天才演奏家たち
フィーリエのメンバーのなかにはソリストとしてヨーロッパじゅうに名を轟かせた女性もいた。なかでもアンナ・マリア・デラ・ピエタは当代一のバイオリニストとして、ヨーロッパの貴族や音楽愛好家の称賛を浴びた。彼女はヴィヴァルディのお気に入りで、当時16歳の彼女に、給料の4ヵ月分のバイオリンをプレゼントしている。
ほかにもアデレート・デラ・ピエタ、アガタ・デラ・ピエタ、ピットリア・デラ・ピエタなどがおり、多くの人々の琴線を揺さぶった。
ピエタとは彼女たちの所属した慈善院=オスペダーレの名称である。当時ベネチアには、メンディカンティ、オスペダレット、インクラービリ、ピエタの4つのオスペダーレがあり、音楽で名を馳せていたのはこのピエタであった。彼女たちはつまり、ピエタ慈善院所属のアンナ・マリア、ピエタ慈善院所属のアデレート、ピエタ慈善院所属のアガタであった。
ルソーはなんとしても彼女たちを見たいと思った。フィーリエのパトロンの1人に頼み込むと、会えることになった。
その喜びを、「待望の美女たちを閉じ込めているサロンに入ると、恋しくて震えを感じた。かつて経験したことのない気持ちだった」とまで言っている。
だが面会した直後のルソーの感情は暗転した。「おそろしかった」と吐露する。
天使だと思っていた女性たちの多くが、体になんらかの障がいを持っており、なかには「天然痘のために外見が完全に損なわれていた」女性もいた。
もっと容赦ない言葉を投げつける者もいた。イギリスから訪れたある貴婦人は、面会した途端、激しく笑い出した後、「私の目は十数人の老婆に釘付けとなった。若い女性も何人かいた。(中略)演奏家たちの姿を見たら、気分が悪くなった」と述懐している。
捨て子の演奏家集団だったフィーリエ
ヨーロッパ中の紳士淑女を魅了したベネチアの天使たちは、少なくとも容姿だけはその紳士淑女が描く天使からはかけ離れていた。
彼女たちの母親の多くは性産業に関わっており、彼女たちの多くは生まれる前から梅毒にかかっていた。彼女たちの容姿が天使のイメージから離れてしまったのは彼女たちのせいではなかった。
フィーリエのメンバー、すなわち聖歌隊の娘たちは、ピエタに捨てられた子どもたちだったのである。ピエタは当時ベネチアに4つあった慈善院で最大で、900名ほどの身寄りのない子どもたちが共同生活を送っていた。
子どもたちは生まれて間もない赤ん坊の頃、ピエタの壁の外側にある、航空機内に持ち込める手荷物にも満たないほどの「スカフェッタ」と呼ばれる引き出しに入れられていた。スカフェッタには、赤ん坊が入れられた時に鳴るベルがつけられていた。
ベルが鳴ってスカフェッタを覗くと、赤ん坊のほかに母親のものであろう指輪やコイン、アクセサリー、布切れなどが添えられることが多かった。それらは餞別や養育費というよりはいつか戻って、その子たちを取り戻すときのための符号として添えられていた。
そしてその符号の大半は、その役目を果たさなかった。
当代一のバイオリニストと称賛されたアンナ・マリアもその一人だった。彼女たちがピエタの姓を使っていたのは、フィーリエの屋号としての意味より、彼女たちが親や親類の名を知らないためだった。
親に捨てられた彼女たちは恵まれていなかった。だがピエタのスカフェッタに捨てられなければ、運河に捨てられていた。それに比べればまだ恵まれていたのである。
捨てられる子どもが多かったのは、ベネチアの宿命でもあったかもしれない。グランド・ツアーの目的地となったベネチアには上流貴族がこぞって訪れ滞在し、現地の女性と浮名を流して多くの落し胤をつくっていた。
たとえば、ポーランド王、アウグストゥス2世は、1716年から17年にかけ17 ヵ月ベネチアに滞在し、その間に365人から382人の私生児を産ませたと言われている。
兼業プロフェショナル
演奏家でもあったフィーリエ
ピエタはほかのオスペダーレと同じように、当時の上流階級のボランティア理事会で運営されていた。教会からは独立していたが、なかの生活は修道院に近かった。
ここでは、子どもたちもピエタを回していくために何らかの労働をしていた。年齢や性別によって住まいが分けられ、毎日ミサがあり、定期的に懺悔もした。外に出て田舎に遠出できるのは1年に1度だけだった。厳しい生活だったが、身寄りのない彼女、彼らにはメリットは大きかった。
子どもたちには読み書きや、計算などの生活のための基本的技能のほか、裁縫や糸つむぎなどの職業訓練も施された。ピエタを出て薬剤師になったり、クリーニング師、帆船の帆の修復の専門家になる少年少女もいた。少年の場合は、ピエタを出るために仕事を覚えるか、海軍に入るかした。
少女の場合、ピエタを出るのは大抵結婚が決まった時だったが、持参金が貯まってもピエタに残る女性のほうが多かった。貯めたお金を銀行に貸付けて、利子を得る女性もいた。
ピエタは子どもたちが自立自活できるようにさまざまな支援を施した。音楽教育はその一環だった。決して彼女たちに演奏家や歌手としての英才教育を施したわけではなかったが、ある時から音楽家、演奏家のニーズが高まっていく。
感染症が人々の気持ちを
音楽に向かせた
当時ベネチアでは感染症が流行し、3分の1の人が亡くなった。すると市民の間に懺悔の気持ちが高まり、音楽のニーズが生まれたと言われている。
オスペダーレの運営者たちは、演奏会を催すと教会へ人が集まることに気づいていった。寄付金も集まるようになり、それは少女たちの演奏の上達に応じて増えていった。18世紀ともなると、オスペダーレは積極的に演奏会の宣伝をするようになった。
毎週、土曜日と日曜日の夕方には教会で演奏会が催され、多くの人が集まり、教会に入れない人は運河のゴンドラの上で聴いていた。演奏を聴くことは無料だったが、椅子に腰掛けて聴く場合は有料とした。そのなかには遠くフランスやイギリス、ドイツなどのグランド・ツアー客もいた。
演奏曲は当初は既存曲だったが、作曲家に依頼し、オリジナルも演奏するようになった。
依頼を受けた一人が、ヴィヴァルディだった。ヴィヴァルディは6年間でピエタの演奏家のために140曲も作曲した。
ヴィヴァルディが旺盛に曲を紡ぎ出せたのも、フィーリエのメンバーが優れていたからにほかならない。
ではなぜ4つのオスペダーレのなかで、ピエタだけが突出していたのだろうか。
特別なプログラムを持っていたからなのだろうか。
特別な英才教育を施さずに
生まれた天才演奏家集団
結論からすればピエタのフィーリエ育成プログラムは、格別に厳しいものではなかった。上述のようにピエタでは幼少時代は、読み書き、計算といった基本的な教育を行い、徐々に職業訓練に入っていく。子どもたちも何らかの労働も担っていたので、音楽の練習は火曜と木曜、土曜日の1時間だけだった。ほかに個人レッスンも受けることができたが、とくにフィーリエ創世期には昨今の英才教育のように1日何時間も個人レッスンが行われることはなかった。
フィーリエのメンバーは意欲的に学んだ。1曲でも多くの音楽を奏でられるようになること、彼女たちの励みとなっていたことは確かだ。
有名になれば、ピエタを出て独立した演奏家にもなれた。
たとえばマッダレーナは、結婚してピエタを離れ、ロンドンからサンクトペテルブルクまでの演奏ツアーを行った。彼女はバイオリニストであり、チェリストでもあり、チェンバリストでもあった。ソプラノの歌声も披露した。
フィーリエのメンバーとなれば、自分で立って自分の人生を歩むことができた。
ピエタ独自のシステムも彼女たちのモチベーションを駆り立てた。演奏や歌のレッスンを受け、新しいスキルが身についたと認められるとお金が支払われたのだ。
彼女たちの演奏がヨーロッパで驚きをもって迎え入れられたのは、1つの楽器の演奏に優れていただけでなく、複数の楽器を演奏できたことだ。とくに生涯をピエタで暮らしたフィーリエメンバーにとって、その意義は大きかった。
その1人、ペレグリーナ・デ・ラ・ピエタはバス歌手としてスタートし、バイオリニストとなり、その後オーボエ奏者となったが、オーボエ演奏家の間は看護師もしていた。彼女のオーボエは素晴らしかったようで、ヴィヴァルディは彼女のために特別なオーボエパートを書いたほどだった。だが60歳になると彼女の歯が抜け落ちてしまい、オーボエを吹くことができなくなった。彼女は再びバイオリンに戻り、70代になっても演奏を続けた。
彼女はまるで古くなった車を買い換えるように楽器を替えたのである。そうすることで、自活し、誰かに影響を与え続ける存在でいたのだ。
18世紀にピエタを訪れた、イギリスの旅行作家で音楽学者のバーニーは、彼女たちの演奏を目の前で2時間聴いた人物だ。
彼は「音楽のすべてが、バイオリンもオーボエもテノール、バス、チェンバロ、フレンチホルン、コントラバスさえ女性によって奏でられていた」と驚き、「さらに興味深かったのは、その演奏者たちが頻繁に楽器を交換していたことだ」と記している。
自在だったのは、楽器の演奏方法もだ。
彼女たちは、神聖な音楽から世俗的な音楽まで教育を受けていたので、コンサートでは歌と楽器を自由に組み合わせて演奏することができた。いまでいう即興演奏である。
「才能のある貧困者」と
一緒に学ばせたい!
フィーリエの演奏は18世紀になるとさらに多くの人々の関心を集めた。演奏の質そのものに対する関心もさることながら、なぜ女性が複数の楽器を優雅に演奏できるのかという点からだった。いつの間にかピエタはベネチアやその周囲の都市、国々の裕福な親たちにとって宝塚音楽学校のような存在となっていた。
「ピエタで”才能のある貧困者”と一緒になれば、聖歌隊の娘たちに入れる」という具合に。
このフィーリエの娘たちは、現代に多くの教訓を残している。
もっとも大きなことは、子どもの可能性を早くから1つに絞るな、ということだ。とかく音楽などの芸術やスポーツは早期からの教育がものをいうと思われている。
しかし、必ずしもそうではないことはフィーリエの娘たちが証明している。むやみに絞るより、複数の関心がありそうな分野をやらせてからでも遅くはない。
音楽心理学者のジョン・スロボダによると、8歳から18歳の初心者から難関の音楽学校に通う様々なレベルの生徒を調べたところ、非常に上達した人も、そうでない人も音楽を始めた頃の練習量に差はなかった。上達した生徒がほかの生徒より、練習量が増え始
めるのは自分が演奏したい楽器がフォーカスされてからだという。
200人の演奏家を調べた別の研究では、音楽を辞めてしまった要因として大きいのは「自分がやりたかった楽器と実際やることになった楽器が違っていた」からということが判明している。
このあたりについては、まだ議論が残るところだが、スポーツや音楽などでも絞り込まず複数の分野を走らせていき、いずれ本人が興味のあるところにフォーカスするほうが、その才能を伸ばせると考える人は増えている。
コロナ禍のいま、
歴史に埋もれたいた貧しき
「天使の歌声と演奏術」を聴く
フィーリエの影響を受けた作曲家はヴィヴァルディだけではない。バロックの主要な音楽家からさらに、上述のバッハやハイドン、モーツァルトなどクラッシックの巨匠たちもインスピレーションを受けている。
ハイドンはフィーリエの一人でハープ、オルガン奏者のビアンチェッタのために曲を書いており、モーツァルトは子どもの頃と10代にオスペダーレを訪問している。フィーリエがさまざまな楽器を演奏できたからこそ、作曲家は深く演奏を洞察でき、今日のようなオーケストラの基礎につながったと言われる。少なくともモーツァルトの代表的な宗教曲の1つは、ベネチアのピエタの少女たちの力がなかったら生まれなかったと言われている。
何故、これほどの才能を持った彼女たちの存在が埋もれていたのか。それは、ナポレオンがベネチアを侵攻したときにその資料を運河などに散逸させたからだった。
かつてヨーロッパ中を感動の渦に巻き込み、近代音楽の発展に多大な影響を与えた「天使の歌声と演奏術」を持つフィーリエ・デル・コーロ。
コロナ禍の春。歴史に埋もれた貧しき女性たちの存在に思いを馳せて、ヴィヴァルディの協奏曲の調べに耳を傾ける時間をつくるのも、いまの時代ふさわしいことなのかもしれない。