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名経営者の言葉 50選

 終わりの見えないパンデミックにウクライナ侵攻。差し迫る温暖化対策。深刻化する人口減少と高齢化に伴う、インフラの老朽化などなど。ますます混迷を極める現代。もちろんAIやDX、バイオ、ゲノム、ロボティクス、宇宙開発など未来を照らす科学技術もたくさんあるが、新技術への対応自体も相当な負荷がかかってくる。こうした先の見えにくい時代に参考になるのが時代を切り拓いてきた先人の言葉だ。とくにリアルなビジネス社会を生きてきた名経営者と呼ばれる人たちの言葉は参考になる。
 それは世界的な良書のように、初めて知った時には十分理解できなくとも、年齢を重ねてようやく理解できる言葉かもしれない。
 いったい名経営者と呼ばれる人々は、好調の時、どん底の時、何を体験し、何を感じ取り、社員やお客様、家族や取引先、メディアに向かってどんな言葉を残しているのだろうか。過去、現在のカリスマ経営者の言葉を噛み締めてみる。
 なお、肩書は往時のもの。

世界的企業を作り上げた
昭和のカリスマ経営者たちの
言葉

01 「歩留まりが悪いから面白いと思うんだ」
井深大(いぶか・まさる)[ソニー共同創業者]
 ソニーは、第二次世界大戦直後の1946年に天才技術者の井深大と天才的国際マネージャー盛田昭夫の2人によって「他人のやらないことをやる」「エンジニアの理想工場」を掲げて創業した(当時の名前は東京通信工業)。満足な機材もないなか、1950年に日本初のテープレコーダーを開発すると、これが大ヒットととなり、その地保を固めた。そして次に井深が狙ったのが、世界初トランジスタ・ラジオの開発だった。当時米国のウエスタン・エレクトリック(WE)社が開発したばかりのトランジスタの特許を使い、自社でトランジスタ・ラジオを製品化しようとしたのだ。だが当時のトランジスタの製造は歩留まりが悪く、アメリカでもわずか5%あるかないか。このため米国の大手企業や東芝や日立など日本の大手も手がけることはしなかった。ライセンスを取ったWE社からはラジオではなく、補聴器の開発を勧められたほどだった。
 その時井深が言ったのがこの言葉だった。
「皆はトランジスタは商売にならんという。でもそうじゃないよ。僕は歩留まりが悪いから面白いと思うんだ。悪いというならよくすればいいんだ」
 そして1955年、井深はトランジスタ・ラジオ「TR—55」の製造販売にこぎつけ、大ヒットを引き起こす。以後改良したトランジスタ・ラジオシリーズを生み出し続け、ヒットを繰り返した。やがて井深はトリニトロンカラーテレビやベータ式ビデオなど「日本初」「世界初」がつく画期的なオーディオ製品を次々と生み出し、ソニーの名を世界に知らしめたのだった。

 そんなソニーの開発者魂が覗えるのが次の井深の言葉だ。

02「日本初、世界初のものを創ってこそ、人より一歩先に進むことができるのだ」
 ソニーという会社が存在する意義、いまで言うDNAに言及した言葉である。人にできないことを実現するためにエンジニアとして何を大切にしていたのか。

 井深はこんな言い方をしていた。

03「その筋が読めるか読めないか、いわゆる直感力が必要だ」
 「筋がいい」とは、どの業界でも重視される言葉だ。それはプロとして直感力を鍛えることであると井深は見ていたようだった。

 そんな井深の直感力は、日本のものづくりの死角についても言及していた。

04「人がやったというニュースだけで日本では同じものがすぐにできるという不思議な性質がある。これはそれをつくるだけの技術力は十分持っていながら、これを思い切って企業化しようという勇気に欠けていることを証明しているようだ。すべての分野で日本の技術力に自信を持ち、思い切った決断を下せるようになったときこそ真の日本の暁は訪れるだろう」

05「アイデアが重要なのではない。一つのアイデアをどうやって、具体的にしていくかが重要なのです」
 ソニーという会社を語る時には、共同創業者の盛田昭夫の存在は欠かせない。盛田もいろいろな言葉を残している。
 盛田はソニーの国際営業責任者であり、ブランドマネージャーの役割が大きかった。ただやはりベースはエンジニア。その考え方は井深とシンクロしている。アイデアだけでなく、そのアイデアをいかに実行できるかがポイントであることを突いていた。
 そしてそのベンチャー魂も井深と共有していた。ある時トランジスタ・ラジオをヒットさせたソニーに、アメリカの有名企業からその企業ブランドで販売させてくれというオファーが来る。

 すると盛田は次のように言って断ったのだった。

06「50年前には、あなたの会社のブランドも、いまのソニーと同様、誰ひとり知らなかったに違いない。我々は将来のために、いまや50年の第一歩を踏み出すのだ。50年後にはソニーもあなたの会社同様、必ず有名にしてみせる」
盛田昭夫(もりた・あきお)[ソニー共同創業者]
 この気概こそが、ベンチャー企業「ソニー」の原点と言えるだろう。

 ソニーをつくった井深と盛田が異業種の同志として意識していたのが、ホンダ(本田技研工業)だった。
 ホンダの創業者、本田宗一郎もいまなお多くの書物が書かれ、現代の経営者を揺さぶり続けている名経営者の一人だ。井深とは親友だった。
 気に入らないことがあると、「口より先に手が出た」と言われるほど、熱しやすい本田だったが、井深や盛田と同様、エンジニアの夢を実現させる環境づくりに邁進し、社員からは「おやじさん」と親しまれた。一代で二輪から四輪、農業機械、船舶エンジン、二足歩行ロボットを製造するまでに業容を広げ、さらにはジェット機をまるごと開発するまでの会社にした。飛行機メーカーが自動車会社になる例はあるが、二輪メーカーがジェット機を開発し量産化した例はない。

07「思想さえしっかりしていれば技術開発そのものはそう難しいものではない。技術はあくまでも末端のことであり、思想こそが技術を生む母体だ」
本田宗一郎(ほんだ・そういちろう)[本田技研工業創業者]
 そんな本田が最終的に社長引退を決断したのは、若手エンジニアからの反論だった。アメリカでマスキー法という環境規制をクリアするために世界初の低排出ガスエンジンを開発していた若手エンジニアに対し、本田が「アメリカのビッグ3に並ぶ千載一遇のチャンス」と発破をかけたところ、「自分たちは会社のためにやっているのではない。社会のためにやっているのだ」と反論されたのだ。これを聞いた本田は、「いつも社会のためにと言ってきたのに、いつの間にか私の発想は企業本位のものになってしまっている。自分の時代は終わった」と悟ったと言う。
 また本田は、ソニーの井深や盛田以上に、大言壮語した人だった。創業して6年目には、世界最高峰の二輪モーターレース「マン島TTレース」に出場し、優勝すると宣言した。当時、ホンダはドリーム号など爆発的人気を誇る二輪車を生産していたが、それはまだ箱根の山越えもできないほど非力だった。「あり得ない話」と誰もが思っていたが、ホンダのエンジニアたちは、「自分たちの生きる道はこれしかない」と奮い立ったと言う。

 そんな本田はリーダーシップについてこんな言葉を残している。

08「リーダーシップとは、目標をはっきり見せてやること」
 宣言から5年後にはマン島レースに参加。その2年後の61年に2階級を制覇。そして66年には5階級すべてで優勝。まさに有言実行。以後もF1への参戦や、ロボットや航空機の開発など、とてつもなく高いハードルを目に見える形で設定し、社員を奮い立たせてその夢を実現させてきたのだった。

 そして本田は、本物のリーダー像について次のように述べている。

09「人を動かすことができる人は、他人の気持ちになれる人である。その代わり、他人の気持ちになれる人は自分が悩む。自分が悩んだことがない人は、まず人を動かすことはできない」

リーダーはかくあるべし

リーダーについて言及する経営者は多い。同じ自動車業界ではマツダの社長を務めた山本健一が、こんなことを言っている。

10 「部下がついてくるかどうかは、リーダーが苦しんだ量に比例する」
山本健一(やまもと・けんいち)[マツダ元社長]
 山本はロータリーエンジンの実用化に世界で初めて成功した時のチームリーダー。次々と現れる難題に何度も打ちのめされそうになりながらも、46人のメンバーとともに世界初のロータリーエンジン搭載のスポーツカーを世に送り出した人物。そのチームは「ロータリー 47士」としてマツダの伝説となっている。

 また三井住友銀行の頭取を務め、その後民営化された日本郵政の社長を務めた西川善文もまた、リーダーのあり方をこんな言葉で語っている。

11「リーダーシップとは、直面する課題から逃げないことである。よって、部下も逃げず、前のめりで戦う」
西川善文(にしかわ・よしぶみ)[三井住友銀行元頭取/第二代日本郵政公社総裁/日本郵政初代社長]
 西川は、もともと新聞記者志望だったが、友人に誘われてたまたま受けた三井住友銀行の前身の住友銀行の面接で、後に住友銀行の頭取となる磯田一郎から気に入られて入行する。その後順風満帆のエリートコースを歩むものの、日本郵政の社長時代には「かんぽの宿」の不正売却問題が浮上、西川は特別背任罪で告発される。しかしその後疑いが晴れ、「疑義なし」として不起訴となる。西川はその間も一切弁明もせず、弱気を見せることもなかった。
 西川は、それ以前の銀行マン時代にも「イトマン事件」やバブル経済で積み上がった不良債権などの処理にも奔走し、まさに「逃げずに」向き合い続けた。その姿にいつしかメディアは「ラストバンカー」と呼ぶようになったのだ。

 同様に大局的見地から逃げずに会社を立て直した名経営者がいる。伊藤忠商事社長を務めた丹羽宇一郎だ。

12「トップは真っ先に苦しみ、最期にいい思いをする」
丹羽宇一郎(にわ・ういちろう)[伊藤忠商事元社長/元在中国日本大使]
 丹羽は1998年に社長になった時に、会社に巨額の特別損失があることを知る。バブル経済時代に投資した土地や株式、海外物件などが値下がりし、4000億円に近い損を抱えていることが判明したのだ。丹羽は、少しずつ処理しながら景気、業績の回復を待つか、一気に処理するかで悩む。少しずつ処理していけば、うまく行けば業績に赤字を出さなくて済む。丹羽が現職時代、汚名を着なくてもいいかもしれない。
 しかし丹羽が出した答えは「一気に処理する」だった。下手すると株価暴落の憂き目に遭うところだったが、幸い約4000億円の特損は、市場関係者に好意的に受け取られ、株価も上がるという結果となった。
 丹羽は、その際けじめをつけるために、「業績が回復するまでは無報酬」を宣言し、会長とともに「タダ働き」をした。役員の中にも責任を感じ無報酬を申し出る人もいたが、「責任はトップにある」と会長と2人だけにとどめている。
 その甲斐あって、伊藤忠商事は2001年度に過去最高益を上げるに至った。そして2015年に、伊藤忠商事は総合商社の純利益で初めてトップに立つ。現社長の功績もさることながら、丹羽が一気に特損を吐き出したことも非常に大きい。

引退後が見事だった
本田宗一郎

 このようにトップがどういう視点を持っているか。どんな価値観を持っているかは会社の未来を大きく左右する。それは引き際の美意識にも現れる。一般に社長の引き際は難しい。ずるずると引き伸ばして、挙句に内紛・お家騒動を引き起こすことも珍しくない。
 その点、引き際が見事だったのは根っからのエンジニアで機械屋だった本田宗一郎だ。若手が成長し、自分の技術者の限界を知るとあっさり社長を退いた。引退した本田がまず行ったことが、全国の工場やディーラーを訪ね、社員やスタッフ一人ひとりにそれまでの感謝を伝えることだった。あるディーラーでは、自分の手が油まみれで汚れていることに気づき手を引っ込めた整備士に対して、本田が手を差し伸べてこう言ったという。

13「いや、いいんだよ、その油まみれの手がいいんだ」
 現場を何より大切したエンジニアの姿勢が見える。

14「私は絶えず、喜びを求めながら生きている。そのための苦労には、精一杯、耐える努力を惜しまない」
 この言葉もまた本田宗一郎という人間の生き方を表している。
 本田は65歳で引退した後も本田財団をつくるなど、技術による社会貢献を続けていく。その人生は好きなこと、夢のために、まさにF1のごとく疾走し、周囲の人間に多大な影響を与えたのだった。
 本田は、亡くなる直前、入院していた病院で奥様のさちさんにこんなお願いをしている。「自分を背負って歩いてくれ」。さちさんは点滴の管をつけて小さくなった本田を背負って、病院の中を歩いたと言う。一通り歩き、病室に戻りベッドに横たわるとこう言った。

15「満足だった」
 そしてその2日後に本田は旅立っていった。この話を聞いた、親友の井深は「これが本田宗一郎の本質だったのだ」と涙を落としたと言う。夢中で駆け抜けた天才を、奥様が愛情で支えていたのだろう。

「血のしょんべんが出たのか?」
─経営の神様の激越な言葉

 井深や盛田、本田と並んでいまなお多くの経営者を魅了しているのが「経営の神様」と呼ばれるパナソニックの創業者、松下幸之助だ。わずか9歳で丁稚奉公に出され、商売のイロハを肌で覚えながら、電気に関わる仕事に就きたいと16歳で大阪電灯(現:関西電力)に入社。その後22歳で後のパナソニックとなる松下電気器具製作所を創業し、自転車専用ランプや二股ソケットなどのアイデア商品で業績を伸ばしていった。
 松下が経営の神様と言われる要因は、こうしたアイデア商品に加え、新しい販売方法も開発したことだった。自転車専用ランプを開発した時には、自転車店に「品物に信用がおけるようになったら、売ってください。その後安心できたら代金を払ってください」と現在の試供品販売を始めたり、さらには日本で初となる家電メーカー系列販売店網「ナショナルショップ(現:パナソニックショップ)」を全国につくりあげた。そして何より雇用を守ることに徹した。
 1929年、世界恐慌の波が日本を襲うと、好調だった松下電気器具製作所の売り上げも激減。在庫の山を抱えた。加えて松下も病に倒れた。あらゆる会社がリストラを始めるなか、それでも松下はこう言って雇用を守ることを宣言した。

16「賃上げも、首切りも結構やがな。だがしかし、ウチはよそのように人の首は切れん」
松下幸之助(まつした・こうのすけ)[パナソニック創業者]
 とは言え、理想論だけでは状況を打開できない。そこで松下はこう続けた。「首切りはしない。生産は半分。勤務も半日。給与は全額払う。しかし、休日返上で在庫を売るんや。ここは凌ぐしかない」。解雇におびえていた社員は大喜び。社員全員が使命感をもって売り歩き、倉庫の在庫は2ヵ月で完売したという。
 松下は、社員を家族同様に大切にした。そのため社員や代理店に対しても家族同様に厳しく求めることもあった。
 努力が見えない者には容赦ない言葉も浴びせた。その1つが会長になってから発した次の言葉だ。

17「血のしょんべんが出るほど努力しましたか?」
 なんとも壮絶な言葉だ。松下は、社員や販売店とのつながりを強めながら積極的な営業戦略で、業績を上げていく。しかし東京オリンピックが開かれた1964年にその業績が頭打ちになる。家庭にテレビや洗濯機などの家電が行き渡ったためだ。全国の販売店が赤字経営に陥り、販売店や代理店の社長から不満が噴出する。そこで松下は、徹底的に話し合って、発破をかけて納得してもらおうと、彼らを熱海のホテルに集めたのだった。これが後の「熱海会議」と呼ばれるもので、パナソニックでは伝説の会議となっている。
 この時松下はすでに一線を引退し、会長になっていたが、不満を延々と募る彼らに対して発したのがこの言葉だった。
 9歳で丁稚に出されて商売を叩き込まれ、その後家族と親類らわずか5人で創業して、数々の苦境を乗り越えて従業員1万8000人を超える会社にまで育て上げた松下にとっては、彼らの言い分は、ろくな販売努力もせず不満を募るだけに聞こえたのだった。議論は平行線をたどり、3日間の予定はさらに延長され、終わりが見えない攻防に思えた時、松下は突然主張を翻し、彼らに対して頭を下げた。

18「結局は松下が悪かったのです。皆さんへのお世話が不十分でした。不況を乗り切られなかったのは、松下電器の落ち度です」
 嗚咽まじりに話す松下に、居合わせた誰もが心を打たれ、大半の人の目に涙が浮かんだ。それまでの攻撃は止み、もう一度団結しようという空気が一気に広がった。そしてその3週間後、松下はなんと営業本部長代行として現場に復帰する。再び販売の陣頭指揮を執ったのだ。販売体制を見直し、それでも不満を述べる代理店に対しては、膝談判で話し合って納得してもらったという。
 やがて新販売制度は徐々に浸透し、販売店の業績は回復していったのだった。
 誰にも負けぬ苦労をしてきたという自負と、その思いが伝わらない葛藤、そしてその葛藤を臆せず吐露し、それを乗り越える覚悟ができたからこその言葉であり、リーダーとしての態度だった。

全財産を失ったからこそ生まれた、
世界のカップヌードル

 井深に盛田、本田、松下らは日本の戦後、まさに昭和という時代をつくった名経営者だが、彼ら以外にも時代をつくってきた名経営者がたくさんいる。
 即席麺を開発し、「カップヌードル」を世に送り出した日清食品の創業者、安藤百福も立志伝中の名経営者だ。
 1910年生まれの安藤は22歳で起業。最初は足袋など衣料品回りの仕事を始めたが、戦後の食糧難、栄養不足を目の当たりにした経験から、食品業界に目を向け、新しい食材研究を始めた。料理学校をつくったり、漁業にも手を出し、さまざまな試行錯誤の末、即席麺一本に絞って開発に没頭。
 そして48歳の時に開発したのが、丼にお湯を注ぐだけでできる世界初の即席麺「チキンラーメン」だった。その際成功の秘訣を安藤はこう語っている。

19「素人だから飛躍できる」
安藤百福(あんどう・ももふく)[日清食品創業者/発明家]
 実はその前に安藤は、全財産を失う経験をしていた。経営者としての腕を見込まれて理事長を引き受けた信用組合が倒産したのだ。しかしこの失敗があったからこそ、即席麺の開発に賭けることができたのだった。その結果、チキンラーメンが生まれ、後に世界食となった「カップヌードル」が生まれたのである。

京都の経営者の言葉

 戦後の時代をつくった人はまだまだいる。なかでも京都にはユニークな人と会社が集まっている。
 京都に本社を置く「京セラ」は、京都のみならず日本を代表する大企業である。創始者の稲盛和夫は、まさに現代の代表的カリスマ経営者にふさわしい経営者だ。すでに京セラトップとしての役割からは退いているが、破産したJALを立て直すなど、その手腕を見込んで政府や自治体、異業種、教育機関などさまざまな分野から再生者、指導者としての依頼が続いている。自身が開催している経営者のための勉強塾「盛和塾」は、国内はもとよりブラジルやアメリカなど海外でも開催され、その塾生は4000名を超えるまでとなったが、2019年に惜しまれつつ閉塾した。
 もともと仏教への関心が高かった稲盛は、65歳の時にそれまでの役職を一切捨てて、在家出家をして得度を得ている。
 1984年には後にKDDI(au)となる第二電電を、旧国際電信電話(KDD)と、ソニーの盛田やウシオ電機の牛尾治朗などの協力を得て設立する。その時、稲盛はこう自らに問うている。

20「動機善なりや、私心なかりしか」
稲盛和夫(いなもり・かずお)[京セラ創業者/ KDDI創業者/日本航空名誉会長]
 動機に利己的な心がなければ、必ず成功するという意味で、本当にそうかと、参入にあたって稲盛は半年にわたって問い続けたと言う。
 日本を代表する大企業を1代で作り上げた立志伝中の人に、日本電産の永守重信がいる。京都生まれの永守は「あらゆるモーター分野で世界一となる」ことを目指して、28歳に京都で創業。わずか15年で上場を果たし、その後M&Aなどを繰り返し、同社を実際に世界的モーター企業にした。吸収合併した企業は、たとえ業績が悪くとも社員をリストラせず、業績を回復させている。その経営手法は「永守マジック」とも言われている。

21「その時点では不可能なことをまず言ってみる」
永守重信(ながもり・しげのぶ)[日本電産創業者]
 永守の言葉は、どこか本田宗一郎に通じるところがある。永守は「従業員からほら吹きだとバカにされるくらい、とてつもなく大きな目標を掲げることが大事」だと語っている。

私心を持たずに、社会に貢献すれば、
結果はついてくる

 近年は何かとイノベーションという言葉が目につくが、その言葉にまどわされると事業の大義を見失いかねない。先の稲盛は「私心」を持たなければ、結果はついてくると言う。同様のことを、モスバーガーの創業者の桜田慧も話している。

22「社会に貢献する仕事をすれば、利益は自然についてくる」
桜田慧(さくらだ・さとし)[モスフードサービス創業者]
 1937年生まれの桜田は大学卒業後、花形業界である大手証券会社に就職。しかし職場には「顧客に損をさせても利益を上げればいい」という考えの人が多く、次第にそんな仕事場に疑問を持ち、人から喜ばれる仕事がしたいと考え、創業したのがスローフードの要素を取り入れたモスバーガーの販売だった。しかし現実は甘くなく、ある銀行に融資申請に行くと、窓口の女性にけんもほろろにあしらわれる。打ちひしがれて歩きながら、ふと銀行を振り返ると件の女性が桜田を見ながら頭の上で指を回していたと言う。桜田は、悔しさの余り涙を流した。しかしそれでも信念を曲げなかった。
 現在、モスバーガーはハンバーガー業界で第2位。早くから健康志向メニューを取り入れ、人口が縮小するマーケットでも客単価を伸ばし続けている。
カルピス食品工業の創業者の三島海雲もこんなことを言っている。

23「事業は金がなければできないが、正しい信念で裏付けられた事業には、必ず金が集まってくる」
三島海雲(みしま・かいうん)[カルピス工業創業者・開発者]
 三島は明治維新間もない1878年に大阪に生まれ、25歳の時に中国に渡って貿易会社を興す。だが内蒙古(現在の内モンゴル自治区)を行商していた時に病に倒れる。その時に現地の人が飲ませてくれたのが乳酸飲料であった。この経験から日本で乳酸飲料を広めようとカルピスの前身、「醍醐味合資会社」を設立。脱脂乳を乳酸菌で発行させた「醍醐素」や乳酸菌入りキャラメルなどを販売するも、売り上げは伸びなかった。それでも諦めずに工夫を重ね、ついに酸乳をベースにした現在のカルピスの製造にこぎつける。「初恋の味」という絶妙なキャッチコピーでカルピスは大ヒットし、やがて年間1億本という爆発的な量を販売することになった。

刺激的な世界的IT経営者の言葉

 目まぐるしく変わるITの世界でも社会性=ソーシャルを意識した経営が増えている。たとえば、いまや世界で約17億人(2016年6月)が利用している代表的SNS、Facebook=フェイスブック。
 その創始者でMeta=メタの創業者であるマーク・ザッカーバーグは、ハーバード大学の学生寮でこの新しい事業を始めた。2004年の開始から1ヵ月でユーザーが1万人を超えて、さらに全米の大学から全米の高校へと広げていく。2006年には学生だけでなく誰でも登録できるオープン登録制にすると、登録者数はまさに倍々計算で広がっていった。
 するとその成長期に入った時期を狙ったかのように、買収話が持ち上がる。2005年にアメリカのメディアグループが、7500万ドル(約85億円)で買いたいと言ってきたのだ。ザッカーバーグは、これを拒否。すると今度はあのヤフーから10億ドルで買いたいというオファーが飛び込む。ザッカーバーグはこれにも反対するが、回りの役員が乗り気。何せ役員にとっては人生が変わるほどのお金が入ってくるわけだ。気が気でない。それでもザッカーバーグは首を縦に振らなかった。それはフェイスブックが儲かるから、ではなかったのだ。

24「僕たちには、これ以上もっと大きく世界を変えるチャンスがある。誰かがこのお金を手にすることが、僕にとって正しい行動とは思えない」
マーク・ザッカーバーグ[メタ創業者]
 ザッカーバーグにとっては、登録者数を増やすことだけでなく、もっと機能的で新しいコミュニティを世界に広げることのほうが意義あることだと捉えていたのだ。
 ITの寵児と言えば、やはりアップル社の共同創業者のスティーブ・ジョブスだ。その波乱に満ちた人生同樣、その言葉は強烈だ。

25「僕が覗くのさ」
スティーブ・ジョブス[アップル共同創業者/ピクサーCEO]
 何事にもこだわり、妥協を許さなかったジョブス。品質はもちろんとくにデザインにはこだわり続けた。外見だけでなく、コンピュータ内部の基盤や配線の美しさにまでこだわった。不満を抱いたエンジニアが、「いったい誰がコンピュータの中まで覗くのか」と聞くとジョブズが答えた言葉がこれ。ジョブスは誰よりアップル商品のファンだったのだ。

 伝説的な言葉を残し続けたジョブスのなかで、ひときわ異彩を放っているのが、スタンフォード大学の卒業式の招待講演でのスピーチ。
 その最後に繰り返された言葉がこれだ。

26「ハングリーであれ、愚直であれ」
 ジョブズは、いつも1日のはじめにこう考えたそう。「今日が人生最期の日だったら、予定していることをするか?」と。そして「NOが続くなら、何かを変える必要がある」と。何事にも満足せず、愚直に、とらわれることなくやってみることだと言うのだ。したいことに対してまっすぐに進む。ジョブズはマーケティングをしなかったと言われている。代わりにしたのが「したいことをしているか?」という問いだった。

 一方、積年のライバルだったビル・ゲイツはこんな刺激的な言葉を残している。

27「成功は、最低の教師だ。優秀な人間をたぶらかして、失敗などありえないと思い込ませてしまう」
ビル・ゲイツ[マイクロソフト創業者・顧問/メリンダ&ビル・ゲイツ財団共同会長]
 20世紀で最も成功した人物と言われるビル・ゲイツ。その成功者が語る「成功」についての言葉は重く響く。

28「途方もない夢でも実現へと前進させることは、意外とたやすい。『そんな馬鹿なことはできない』と誰もが思うことならば、競争相手はほとんどいないからだ」
ラリー・ペイジ[アルファベットCEO /グーグル共同創業者]
 検索エンジンから始まったグーグルは、いまやAIや量子コンピュータなどの最先端技術や宇宙開発も手がけるまでになっている。その姿勢は、誰も思っていない世界に挑戦すること。だから振り返る暇さえない。ただひたすら突き進む。
 人口14億の中国は、アメリカ以上のビッグチャンスをもたらす可能性がある。もともと華僑ネットワークに見られるように商売センスの高い中国人は、可能性があるとみるや一気に勝負をしかけていく。そういった激戦区の中国ビジネス、とりわけIT業界で中国のビル・ゲイツと呼ばれたのが、ネット販売サイト「アリババ」をはじめとするアリババグループや「Alipay」などのアントグループの創業者、ジャック・マー(馬雲)。幼少時代は、喧嘩ばかりで、学校の成績も悪く、親戚や友人から「将来ロクな者にならない」と言われていた。彼の喧嘩は友人のために行うことが多く、その勇気こそが彼の武器であった。大学受験は3度失敗するが、定員割れした学科にスライド合格する運の良さがあった。
 アリババを立ち上げた時も、たまたまアメリカに出張した時にネット販売サイトを知ったことがきっかけ。ビル・ゲイツやラリー・ペイジのようなコンピュータの専門家でもなかった。しかし少ない出資で中小の商店が多くのリターンを得られるサイトビジネスに可能性を見出すと、あとはひたすら邁進した。ある時マーは銀行から呼び出される。「ある大物投資家が会いたいと言ってる」と。その投資家が孫正義だった。投資先を選定していた孫正義と会った時の感想をマーはこう述べている。

29「金のために頭を下げなかったことが、成功を招いた」
馬雲(ジャック・マー)[アリババ創業者]
 マーは事業の成功には、お金以上の要素も重要だと考えていた。「投資家を探すのは金のためだけでなく、アリババが良い発展を遂げるためだ。投資家への条件は厳しい。金を必要としていても、誰の金でも良いわけではない。自分にも選ぶ権利があるのだ」。
 マーは未来の展望についてはこんな言葉を残している。

30「すでに過去のことは一番大きいとは言えない。一番の危機は未来にある」
 マーが常に危機感をもって未来に臨んでいることがわかる。

名経営者はどう考えたか

 まだまだ独特の考え方ややり方で、市場を切り開いた名経営者はいる。

31「自動車メーカーのない国に行けば、1位になれる」
鈴木修(すずき・おさむ)[スズキ自動車社長]
 軽乗用車で圧倒的な強みを持つ、スズキ。国内企業としてはインドにいち早く飛び込み、マルチスズキという合弁会社で、インドの国民車と言われるマルチなどを量産している。この数年は倍々計算で販売台数を伸ばしており、シェアも2015年下半期では約47%と半分近くを占めている。いち早くインドに進出したスズキだが、「先見の明があったわけではない」と鈴木社長は語る。「先進国に行きたかったが、体力的に行けなかった」というのが本音だという。

 それは次の言葉に現れている。

32「小さな市場でもいいから、ナンバーワンになって誇りをもたせたい」
 どんな市場でも、「そこで花を咲かせる」ことが何よりの自信となり、自分の成長につながるのだ。

33「全員反対したものだけが、一考に価する」
諸井貫一(もろい・かんいち)[元秩父セメント(現・太平洋セメント)社長]
 諸井はもともと東大の工学部と経済学部で工業経済論を教えていた大学教員。父が創業した秩父セメントへ転身したのは、日本の実業界の礎を築いた渋沢栄一に勧められたから。財界の理論家として会社を優良企業にしただけでなく、経済同友会副代表幹事や日経連副会長を歴任している。学者らしい頑固な面があり、こうと決めたら譲らない性格で、渋沢からは「相手の立場を理解してやるという広い気持ちを持たねば、世の中に円満に処していくことはできない」とアドバイスを受けたこともある。しかし、反対の多いアイデアこそ、独創性が際立つわけで、その基本を教えてくれる言葉だ。

34「すぐ役立つ人間は、すぐ役に立たなくなる」
藤原銀次郎(ふじわら・ぎんじろう)[王子製紙社長]
 製紙王と言われた藤原は、製糸王でもあった。旧三井銀行の支店で業績を上げた後、富岡製糸場の支配人となり、労働環境改善に尽力。その実績を買われ、経営不振となっていた王子製紙の再建を担当、自ら株を引き受けて、主体を新聞紙に転換して赤字を食い止めた。藤原はまた人材育成に力を注ぎ、私財を投じ、「藤原工業大学(後の慶応大学工学部)」を設立している。その思いを語った時に出た言葉だ。

35「自分が能力も運もないことに気づいたら、ありがたいもんです」
矢野博丈(やの・ひろたけ)[大創産業社長]
 百均の言葉の生みの親、100円ショップの先駆者「ダイソー」。創業者、矢野の人生は苦難の連続だった。大学時代に学生結婚し、奥さんの実家のフグ・ハマチ養殖を継ぐも、多額の負債を抱えて夜逃げした経験がある。その後は転職を繰り返し、再び事業を興したのが30歳の時。トラックで100円均一の移動販売を始めたのが、いまの原点だ。しかしその後商売の業績が上がると倉庫を放火された。失望のなか残った商品を集めて、スーパーに掛け合うと出店が認められ、いまのスタイルに。その後も、社員が別会社をつくろうとするトラブルも発生するなど、決して順風ではなかった。倒産の恐怖に怯えながら悟った言葉がこれだった。

36「顧客に対して、理にかなわないと言ってはいけない」
張瑞敏(ちゃん・るえみん)[ハイアールCEO]
 中国メーカーのハイアールは現在160カ国で展開し、白物家電においては世界一のシェアを誇るメーカーとなった。そればかりではなく、13年連続の偉業を達成している。張は、ハイアールの前身である青島日用電器に工場長として派遣され、その再建を任される。当時の中国製品は安かろう悪かろうと言われ、しかもデザインも遅れていた。「安かろう悪かろう」の意味は、彼らがいかに悪くても、つくったものは必ず市場に出していたから。品質に問題のあるものは、二級品、三級品として価格を下げて売っていたのだ。張は、それを一級品以外を出すなと厳命、すなわち「合格しないものは全て叩き壊せ」と命じ、さらにユーザーの満足度を高めることを徹底した。
 ある時、洗濯機を買ったお客さんから「芋が洗えない。すぐ壊れる」という苦情が来る。さすがの中国でも洗わないのが常識だが、ある地域では芋を洗濯機で洗っていたのだ。張はそこで芋が洗える洗濯機を開発させ、その期待に応えた。こうして倒産寸前だったハイアールは白物家電シェアで世界一を占める会社になった。

 そんな張は、事業承継についてこんな言葉を残している。

37「事業承継の本質とは、『最も優秀な人材を指名すること』でもなければ、『いつトップの椅子を譲るか』という問題でもありません。内部の自発的な力によって、その時に最適なトップを選ぶメカニズムがあるかどうかです。仮に私がこのままずっとハイアールにいるとしても、私がトップにいるとは限らない。そうした仕組みが出来上がることが重要なのです」
 中小企業の事業承継問題に悩む経営者に、参考にしてほしい言葉だ。

38「自分が相手を疑いながら、自分を信用せよというのは虫のいい話だ」
渋沢栄一(しぶさわ・えいいち)[明治時代を代表する実業家]
 2024年から1万円札の顔となる渋沢栄一は、幕末に生まれた明治の日本を代表する実業家だ。生涯立ち上げに関わった企業は第一国立銀行や王子製紙、東京ガスなど500にのぼるとされている。現代でいうシリアルアントレプレナーだが、量と経験の豊富さでは無双だ。激動の時代を生き抜き、国の根幹に関わるさまざまなビジネスの立ち上げに関わったからこそ、出て来る言葉だ。

39「人生をマイナスから出発したと考えれば、あとは右肩あがりのプラスでしかない」
宗次徳二(むねつぐ・とくじ)[CoCo壱番屋創業者]
 宗次は、1948年に石川県に生まれるが、生後間もなく児童養護施設に預けられた。3歳の時に養子として引き取られるも、養父がギャンブルに狂い、極貧の生活を余儀なくされる。
 逆境のなか高校を卒業し、不動産会社に就職し、結婚を機に独立を果たす。当初は奥様がやっていた喫茶店を手伝っていたが、人気メニューのカレーに賭けようと始めたのがCoCo壱番屋だった。児童養護施設出身で、不遇の貧困生活を経験し、上場企業をつくりあげた例は他にない。起業してからの苦労もすべて「右肩あがりのプラス」と捉える強さがあったからこその成功だ。重みのある言葉だ。

40「人よりほんの少し多くの苦労。ほんの少し多くの努力で、その結果は大きく違ってくる」
鈴木三郎助(すずき・さぶろうすけ)[味の素創業者]
 鈴木は1868年のちょうど明治維新の時に生まれた。もともと家は製薬所を営む資産家で、大きなお金が動くところを間近で見ていたせいか、若い頃は一攫千金を夢見て米相場に手を出したこともあった。それが災いのもと。相場で大借金をつくり、家に内緒で田畑を売ってしまったこともある。
 心機一転し、実家の手伝いをしている時に、東京大学の池田菊苗博士がグルタミン酸ソーダの特許をとったことを知り、これの共同特許者として「味の素」の名をつけて販売。当初は味や品質が安定せず、なかなか売り上げに結びつかなかったが、しだいに高級料理店で使われ始めると売り上げは徐々に上がっていった。若い時に一攫千金を夢見た人物だからこそ、コツコツ努力する価値を見抜いたのだと言える。

41「議論で相手を負かすことなら、ある種のテクニックを身につければできる。だが相手に勝つことと納得させることは違う」
犬伏泰夫(いぬぶし・やすお)[神戸製鋼所社長]
 1944年生まれの犬伏は、公平に人やものを見る人として社内の評価が高く、交渉をまとめるのがうまかったようだ。とかく好戦的な人間が多いなか、勝つことより、相手がいかに納得するかに心を砕いた犬伏の姿勢は、サステイナブルという視点から見習うべきことは多い。

42「これからは収支のことは一切言わない。そのかわりサービスのことは厳しく追求する」
小倉昌男(おぐら・まさお)[ヤマト運輸社長]
 1924年生まれの小倉昌男は、日本で個人宅配便というサービスを最初に始めた人物だ。家業である運送業「大和運輸」を継いだ時、会社は傾きかけていた。当時の運送会社では大口である法人を相手にする運送が中心で、誰も個人間の配達を事業としようとは考えていなかった。小倉はこのアイデアを父親に話すと、猛反対。しかし新しい市場を拓く以外に道はないと考えた小倉は、これをはねつけ、実行する。その時、社員に言った言葉がこれだ。1976年事業開始初日の取扱い個数はわずか11個だったが、「サービスが先に、利益は後」と推進し続け、1980年には、ついに当時の国鉄が扱う小荷物と並ぶ3330万個を達成する。経常利益は前年度の3.3倍となった。いまのインターネット販売もこうした小倉たちの挑戦がなければ、これほど発展はしなかったはずだ。

地方で燦然と輝く経営者の言葉

43「『できない』というのは頭のなかで思っているだけで、本当にそうなのかどうかはやってみないとわからない」


44「そして、その時にまだ中村ブレイスで働きたいと思うのであれば、私たちは待っています。あなたの席を空けて待っています」
中村俊郎(なかむら・としろう)[中村ブレイス創業者]
 中村ブレイスは、1948年島根県生まれの中村俊郎が、たったひとりで故郷島根県大田市大森地区に立ち上げた会社だ。2つとして同じものがない義肢の制作だけで、しかも決して便利なところではない土地で食べていくことは大変だったが、その高い技術と真摯な人柄が話題となり、次第に全国から注文が入るようになる。いまでは義肢だけでなく、人口乳房や人口指、コルセット、サポーターなどさまざまな特許を取得し、数百種類もの義肢装具を扱うメーカーとなっている。注文は世界中から入って来ている。
 その技術を身に着けたいという若者や障がい者も多く、中村はできる限り受け入れて、後進の指導にあたっている。2つめの言葉は、ある時片足をなくした女子中学生が訪ねて来て、思い詰めたように話した時に中村が返した言葉。彼女は「いじめられたりすることもあり、高校に行きたくない。ここで同じような人を助けたいので、中学を出たら働かせてください」と懇願した。
 中村は、即座に「それはダメです」と断った。そしてこう続けた。「最低でも高校を出てください。できれば大学も行ったほうがいい」と諭して、こう続けたのだった。その女子中学生は、中村の言葉を受け入れ、6年後、中村のもとにやってきたのだった。中村はちゃんとその子の場所を空けていた。

45「オリンピック特需より、いつもの地域のお客様を優先しよう」
宇都宮恒久(うつのみや・つねひさ)[中央タクシー社長]
 長野県にある中央タクシーは、駅で客待ちすることがないほど、稼働率が高い人気タクシーとして知られる。駅のタクシー乗り場では、中央タクシーが来るまで、お客が譲り合う光景が見られるほど。地元密着を徹底し、お客様の要望を徹底して聞くからだ。きっかけとなったのが長野冬季オリンピックだった。他のタクシー会社がオリンピック客の取り込みに躍起となった時に、社員から「ふだん利用してくださっているお客様はどうなるの?」という声に、気付かされたと宇都宮。地元のタクシーが地元の方を乗せずに誰が乗せるのか—。出た答えがこれだった。

46「急成長して大きくなった会社はいつか必ず、取引先や顧客、そして社員に迷惑をかけることになるのです」
塚越寛(つかこし・ひろし)[伊那食品工業社長]
 伊那食品工業の社是は「いい会社をつくる」。そう思っていても、なかなかその思いを社是とする会社はないだろう。しかし長野の伊那食品工業には堂々とこの言葉が掲げられている。いい会社というのは、「単に数字がいいだけでなく、会社をとりまくすべての人々が、日常会話の中で『いい会社だね』と言ってくださるような会社のこと。つまり社員の幸せを通じて社会に貢献できる会社」だ。社員が満たされていれば、自ずと社会に貢献するようになるというのが、塚越の信念だ。そのためには安定した成長を続ける「年輪を刻むような」経営が必要。伊那食品工業は、独自の「年輪経営」で、48期連続で増収増益を実現している。

47「お惣菜の作り方を教えて、マイナスになるようなことは何ひとつありません」
佐藤啓二(さとう・けいじ)[さいち社長]
 仙台市の秋保温泉街にあるわずか80坪の小さなスーパー「さいち」。ここの人気商品は惣菜で、売り上げの5割を占める。とくに手作りのおはぎには県外からもお客様がやってきて、平日で5000個。土日は1万個。お彼岸には2万個が売れる。そんな小さなスーパーにイトーヨーカドーをはじめ名だたる大企業や同業者が視察や研修に来る。その数600社以上。社長の佐藤は4代目で、最初は配達を中心に行っていた。しかし商売はジリ貧で、売掛金だけが溜まっていった。そこで心機一転「スーパー」をやろうと決心したものの、ノウハウも資金もなく倒産寸前となる。その時、あるセミナーで知り合った栃木県のスーパーの社長が、親身になって話を聞いてくれたことが、現在のスーパーさいちの原点となった。その人はノウハウを提供しただけでなく、人財も提供して応援してくれた。その人への恩返しも含めて、佐藤は訪れる人々に惜しげもなくノウハウを教えている。「むしろ勉強しているのは私たちのほう。現在置かれた苦しい状況や何を変えようとしているのかなど、ふだんは口にしないような思いも、すべてぶつけてくれます」
 教えることは、自分たちの成長につながる。そんな佐藤は、社員が成長する魔法の言葉を持っている。

48「機会あるごとに従業員を褒めますが、なんと言っても一番効くのが『頼んだぞ』の一言。この一言だけで、従業員は責任をもって取り組んでくれるようになります」
 自主的に学ぶ組織ほど強いものはない。

49「週に1回の失敗が2週間に1回となれば、成長したということです。5年もすれば、失敗しなくなります」

50「人は働くことで幸せになれる。であれば、会社は社員に『働く幸せ』をもたらす場所でなければならない」
大山泰弘(おおやま・やすひろ)[日本理化学工業会長]
 日本理化学工業は学校で使うチョーク製造などを行う会社。社員83名のうち62名が知的障がい者。
 大山は1932年生まれで、もともと弁護士か教師を目指していたが、父親の病気によって家業を継ぐことになる。入社3年後に、知的障がい者の通う養護学校の教師から、卒業生の就職依頼を受ける。当初は2週間の実習のみで受け入れたが、その熱心な仕事ぶりに感銘し、正式採用。以後1人でも多くの障がい者を受け入れようと採用を続けている。「この子たちの一生の面倒をみることができるだろうか」と悩んだ日もあったと大山。だが「人を工程に合わせるのではなく、工程を人に合わせる」ことに気づく。大山は社員一人ひとりの個性にあった改善を続けることで、社員のモチベーションを高め、さらにそういった障がい者がいることで、通常の会社にはない新しい商品を生み出しているのだ。

 いかがだろう。これらの言葉に何を見出しただろうか。1つでも心に残る言葉があれば幸いだ。

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