時代を乗り越えるために先人に学ぶ – 大人として知っておきたい江戸商人の智恵
SDGsが定着し、企業のトップマネジメントではSX(サステナブル・トランスフォーメーション)やGX(グリーン・トランスフォーメーション)といった言葉も日常化している。
事業を発展拡大させ、企業を成長させていくのは企業人の務めだが、単に利益だけを求めて生産性を高めたり、合理化するだけの時代ではなくなっている。地球人として当たり前の倫理性や道徳性を踏まえた組織でなければならないし、コロナ禍のような未曾有の事態にも柔軟に対応できなければ、サステナブルな経営はできない。
改めて見直したいのが先人の企業家たちの知恵だ。日本の企業は1000年の歴史を持つ大阪の金剛組をはじめ、数百年の歴史を持つ世界的にも長命な老舗企業が数多く存在する。
目次
経済戦国時代だった江戸時代
なかでも注目したいのは270年続いた江戸時代の企業。ダイナミックな変化があって戦国の世が終わりを告げ、政治的に安定した時代となったことから、商人がじわじわと力を伸ばし、代々引き継がれる名商が増えた時代でもある。
ともすれば江戸時代はあまり革新や変化の起こらない封建社会というイメージがあるが、それはあくまで武士同士のぶつかり合いの話で、近年の研究ではさまざまな業種で多様な市場競争が繰り広げられた「経済戦国時代」であったことがわかっている。商人たち=企業人たちはさまざまな知恵やノウハウでその経済戦国時代を生き延び、発展させてきた。
商人が肝に銘じていた言葉
「商いは牛のよだれ」
江戸時代の経営の最大の目的は収益を上げることより、事業の継続性にあった。それは戦国時代と言われるほどの市場競争のなかで生き残っていく当然の帰結である。江戸時代の商売は、株仲間をはじめ、既得権をベースにした市場の組織化が進み、排他的な商社会を色濃く示すものとして認識されている。しかしこうした組織が誕生し、発展することは、激しい生き残り競争を生き抜く知恵であり、同時に心ない新参者が市場の信用を落とすことを阻止するためでもあった。
事業継続のために商人が重視すること―それは「信用」である。売上や利益の大きさ、成長の早さではない。彼らが肝に銘じていた言葉―それは「商いは牛のよだれ」。
牛のよだれが細く長く垂れる様から、少しずつ細く長く行うことで財に結びついていくことを表した諺である。決して利幅の薄い価格競争の消耗戦を生き延びることや、単に堅実で質素に徹する経営を意味するものではなかったと言われている。
たとえ小さな分野でも徹底してこだわり、堅実な経営でその道の一流を目指すことにある。つまり、オンリーワンを目指すということである。
本来の業務でないような浮利を追わず、技を磨き、工夫を重ね実直に商いに徹して残る、ささやかな利益の積み重ねこそが商売の本道とする。
その姿勢は低成長時代、混迷を極める現代に語られる「ゴーイングコンサーン」、すなわち「事業の継続性」を先取りしていた。
家訓を取り入れることで
商家が発展した
一方で江戸時代は、豪商と言われる力のある商人が力をつけた時代でもあった。だが現在の企業がそうであるように、事業規模が拡大すれば組織を律していくことは難しくなる。そこで江戸時代多くの商家が取り入れたのが「家訓」である。
現代の企業でいう「行動指針」や「規範」といったところだ。最近の企業では会社の使命やビジョンを謳うところが多くなったが、そのビジョンや使命の実現のために掲げるのが行動指針や行動規範だ。
もともとは武家の家訓や家法などを、商家が真似て広まっていったとされる。この家訓の導入で個々の商家の結束が強まり、収益力をアップ、事業の継続性を担保していった。
江戸時代の商家の家訓は、端的で具体的、かつ本質的なことを突いたものが多かった。
たとえば「いやしくも浮利に走り、軽進すべからず」と説いたのは、現在の住友グループを築いた住友家の家法だ。目先の利益や一攫千金を狙わずに、堅実に信用を得ることが代々の繁栄につながるという「牛のよだれ」の経営方針が見事に謳われている。こうした堅実経営を謳う商家はほかにもたくさんある。
老舗百貨店「松坂屋」の創業家である伊藤家の家訓では「伝来の家業を守り、決して投機事業を企つことなかれ」と、投機的なことを明確に戒めている。以前、松坂屋が村上ファンドの投資対象になったが、松坂屋はかたくなにこれを拒否した。これはファンドという仕組みになじめなかった、もしくは村上ファンドのやり方を心良く思わなかったという見方もあるが、そもそも家訓がそれを戒めていたことが背景にあったことが大きい。
また江戸時代の商家の家訓には、社会への貢献や還元を謳うものも多かった。
今では多くの企業が「社会貢献」の様子を年次のレポートにして社会にアピールしているが、江戸時代の商家にとって社会貢献とは、信用を得ることもさることながら、生き延びる合理的手段でもあった。
というのも江戸時代は社会全体が安定していたとはいえ、多くの庶民は常に災害や飢饉などの不安と隣り合わせで生きており、天候不順が続いたり、藩主が悪政を続けたりするとたちまち多数の餓死者が出た。そのため、財や食品を貯め込んでいた商家は強奪や焼き打ちの対象になりやすかったのだ。
その例が、江戸時代にあった大塩平八郎の乱の災難を免れた百貨店「大丸」の創業家だ。大丸では代々「先義後利」を家訓にして、社会貢献を実践してきていた。大塩は乱を企てた際、それを知って、「義商だから」と仲間に火を放つのを止めさせたとされる。社会とともに生きてこなければ、自分たちも生きていけない。地域社会に対する貢献は、自身のサバイバル術でもあったのだ。
先に義を感じ、後に便利さを知ったら必ず利益は出る―
富山の薬売り
この大丸の「先義後利」ならぬ、「先用後利」、つまり先に使ってもらって、あとから利を得ることをモットーにして画期的なビジネスモデルを開いた例もある。「置き薬」の富山の薬商たちだ。
富山の薬商たちは、得意先の家族構成を見ながら、必要と思われる薬を置いていき、半年後に訪れて、使った分の代金をもらって、薬を補てんしていった。先に使って使った分だけ払うため、得意先としては感謝の気持ちでいっぱいになる。満足度が高く感謝されるからこそ利益を生むわけだ。
病気はいつどうやってくるかはわからないし、現在のように医学が発達していない江戸時代では、手許に薬があることが、どれほど人々を安心させていたか。それがどれほど信用になっていたことか。
富山の薬商は日本の近代化も支えている。とくに幕末から明治にかけて開拓された北海道では、富山の薬商が医療システムの未発達だった北海道に出向き開拓民の健康を支えたのである。富山の置き薬システムは各地で同様のビジネスモデルも生み出している。近江商人で知られる滋賀県の高島市一帯、仏教の宗都でもある奈良、佐賀県の鳥栖市一帯は富山の薬商に倣って置き薬メーカーが誕生していった。たとえばサロンパスで知られる久光製薬は鳥栖市の置き薬製造から発展している。
富山は製薬の集積地であるが、日本全体の製薬業の底上げ、地域の人々の健康と活力を支え、各地に富をもたらしたのである。今でも繰り返される「お客様第一」の精神と実践は、まさにこの富山の薬売りに原点があると言っても過言ではないだろう。
女性との関係を
指示した家訓
家訓には女性に対する戒めを説く例も多かった。人間、羽振りが良くなると散財したり、女性(男性) に貢ぐことが多くなるもの。とくに2代目、3代目となると創業者ほどの苦労を体験していないため、商売そっちのけでのめり込むようなケースも多々あった。
ただなかにはこの人間の業を巧みに利用した経営者もいた。例えば伊勢商人の長谷川治郎兵衛。丁稚奉公の若い男たちを定期的に遊郭に送り、発散させていた。彼らは当然若さゆえ、色に溺れてしまう者もいた。長谷川はそういった者を容赦なく解雇し、新しい者を雇うことを繰り返していた。こうすることで新陳代謝が促され、組織が活性化することを意図的に狙っていたという。
このほか名古屋の商人伊藤長次郎は「女の美なるは傾国の端なりと云へり。よって女房は美女は悪し」、つまり女房は美人だと出費もかさむので美人でないほうがいいと言い、ヤマサ醤油の創業者浜口儀兵衛は「妻を貰う場合は、その財産、地位などの点で浜口家よりおとること」などと残している。
ヤマサの浜口家の真意は、「良家の子女だと生活が派手になるので散財する可能性があるから、できるだけ回避する狙いがあった」とされている。別に資産家の子女が散財家、浪費家ということではなく、とかく家柄や格を重視する江戸の昔は、交際にお金がかかってしまうから、家柄や格が低いことはそれだけお金がかからずに済むと考えたからだった。いずれにしても男女の関係は、自分を律する強さを問う試金石でもあった。
顧客の喜ぶ仕組みを
次々に生み出した豪商たち
商売人として感謝と信用を追求することは、堅実経営を持続させることにとどまらない。
ときに業容を拡大するきっかけにもなる。その代表例が、現在の三井グループの前身を築いた呉服店「越後屋」、現在の三越である。越後屋は日本で初めて薄利多売・現金決済の商売を生み出したことで知られる。
江戸時代、越後屋は革新的なアイデアを次々繰り出し、商売を拡大していく。当時、江戸においてはまだ新参者だった越後屋にとっては、逆に革新的なアイデアで戦っていくしかなかった。
その一例が反物の切り売り。
当時反物は1反を単位として取引されていたが、それではお金に困っている人は買えない。そこで切り売りすれば多くの人の需要を満たせると考えたのが始まりだ。きっかけは、越後屋の創業者三井高利が銭湯で聞いた、客の「ふんどし一本にも1 反を買わないといけない」という愚痴だったという。仕立てをその場で行うという販売方法も越後屋が考えた。越後屋は、そのために多くの仕立職人を抱えるようになり、客にとっては値段も張ることになったが、その場で待っていれば仕立ててくれる便利さは、せっかちな江戸庶民に重宝がられた。
極め付けが「呉服物現銀、安売無掛値(かけねなし)」の告知だ。現金で支払ってくれれば、安く取引させてもらうという商法。最初は現金がないと取り引きできないということから、とくにツケで取引をしていた武家からは評判が悪かったが、実際そのほうが安いとわかるとたちまち人気となった。
越後屋はまたPR にも熱心だった。芝居小屋の役者に流行りの着物を着せて、購買意欲をあおった。いまでいうテレビ番組やラジオ番組のスポンサーである。また雨が降ってきた時に「越後屋」という文字の入った傘をただで貸し出したりもした。
一方、義商として知られた大丸もPR のうまい企業だった。大丸は店員に大丸の文字を染め抜いた萌黄色の風呂敷に荷を包んで、江戸の街中を歩かせたという。現在では百貨店と言わず、名のある企業はオリジナルの紙袋やケースを商品とともに用意しているが、これはいわゆる「アウトオブホーム」と言われる屋外広告の一種で、大丸はそのはしりと言っていいだろう。このほか大丸では、神社などにも大丸の商標入りの灯篭や鳥居を寄進したりしていた。
優れた人事制度が
企業を育てる
江戸時代はまた、全国規模の企業が誕生した時代でもある。
当時は天下の台所と言われた大阪に全国の商材が集められ、それを京都の商人たちが製品化し、急速に発展した大消費地の江戸に売るという3都の関係が確立していった。江戸時代に成長した商家たちは、おもに京都など関西一円から江戸に進出したため、必然的に多店舗化、組織化が求められた。越後屋はそのトップランナーだった。
1683年に日本橋に店舗を構えた当時の越後屋は、支配人他26、7人だったが、その5年後には、約2.5倍の68人にまで増えている。3代目の時代(1716 〜41年) になると、江戸に3店、京都に5店、大阪に1店という系列店を持ち、合計683 人の店員を抱えるに至っている。越後屋はその後、呉服だけでなく両替商など事業の多角化を行ったが、多角化に伴い職人の専門化、細分化を進め、マネジメントに長けた人材を選抜する仕組みを確立した。もともと職人集団であった江戸の企業体を、越後屋では、麻なら麻、木綿なら木綿とさらに専門化を進め、それを組織化していった。その上に専門を統括する「大元方」という、いわば執行役員機関を設けて、その経営にあたった。
越後屋が巧みなところは、経営の本質が人のマインドにあることを理解していたことだ。日々の勤務評定を行い、褒美を出す賞与制を取り入れていた。1670年代頃には多いケースではなんと5年間一家がつつましく暮らせる程度の50両を、少ない場合でも5両程度が与えられたというから、現場は非常に活気にあふれていたという。また当時の奉公人の夢は独立して店をもつ「のれん分け」にあったため、頑張れば確実に独立できた越後屋の制度は、努力と辛抱のしがいもあったようだ。
ほかの豪商も同様の仕組みを持っていた。たとえば住友では、新入社員の丁稚から伸びてきた者に加え、中途採用でも能力、素質があり、努力を怠らない者も分け隔てなく出世させたという。
商人の基礎を作り上げた
「近江商人」
発展する江戸で勢力を伸ばしていったのが、近江商人である。関西商人のなかでいち早く進出したこともあるが、その「持続的経営」思想が受け入れられたこともある。
それが「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」の「三方よし」の考え。商売は当事者だけでなく、世間のためにならないと意味がないとする、現在の「企業の社会的責任」を先取りした示唆的な思想だ。
実際近江商人は社会を常に意識して商売をしていた。世の中に害を与えないようにするため、たとえ品薄であっても余分な口銭を取らず、売り手が悔やむくらいの薄い口銭を基本とする「薄利多売」主義や、商人が手にする利益は、権力と結託したり、買占めや売り惜しみをしないで、需給を調整して世に貢献するという戒め「利真於勤(りはつとむるにおいてしんなり)」。あるいは先々の値上がりを期待して売り惜しみをしない「売って悔やむ」など、ひたむきに世間の役に立つことを念頭に商売を考える姿勢が伺える。
また正当に積み上げてきた財産を己の欲望のためにつぎ込むような当主に対しては、後見人や親族が決然と罷免できる「押込め隠居」という制度もあった。商売の才覚や関心、努力に欠ける人間は、いかに直系の者でも容赦なく切られたのだ。
こうしてみると、改めて江戸の商人たちが言ってきたこと、実践してきたことが、現代の経営にも通じ、先取りしているかわかる。謙虚でかつ、したたかな姿勢は大いに学びたいものだ。